ブレストリトウスク条約

ブレストリトウスク条約

ブレストリトウスク条約

ブレストリトウスク条約

ブレストリトウスク条約

ブレストリトウスクでトロツキーとキュールマン(独外務次官)、ホフマン(東部軍参謀長)が交渉中、東部戦線は1918年2月17日まで静謐が保たれた。        ホフマン

1月中、ソビエト軍は休戦ライン内で民族的抵抗に遭遇していた。大きな反乱としてはウクライナとフインランドがあげられる。1月28日ソビエト軍はルック(ブルシロフ攻勢の際の古戦場)で独立ウクライナ軍を破り1月29日キエフとオデッサに入城した。ドイツはすぐさま独立ウクライナ軍への支持を表明する。

この時点でルーデンドルフは従来隠密裏に行っていたレーニンへの支持を打ち切ったのではないか。

一方フィンランドでは復員した帝政ロシア軍騎兵師団長マンネルハイムが独立を宣言ソビエト軍と交戦状態となった。1月31日レーニンはソビエト連邦の成立を宣言した。2週間後赤軍の創設も発表された。

2月17日ドイツ軍は52個師団をもって、休戦ラインを突破した。2月19日レーニンとトロツキー連署による、前回ブレストリトウスクでの会議のドイツ側条件を受諾する電報がおくられた。しかしドイツ参謀本部はこれを一蹴し、更に厳しい条件をつけると回答した。2月20日にはミンスクに入城した。部隊の移動はソ連の鉄道が使われた。機関銃を駅員につきつけるだけで好きな所へ行けたという。

2月23日ソ連政府はフィンランドの独立を承認した。2月24日ドイツ軍はエストニアに進攻、現在のバルト三国全域を占領した。2月26日ドイツ軍と共同して戦ってきたフィンランド大隊が領内に入りマンネルハイムと握手した。

トロツキーをブレスト駅で迎えるホフマンら。こちら側を向いているのがトロツキー

ドイツ軍はまだ前進を続けていたが、3月1日再度ブレストリトウスクで交渉が再開された。トロツキーは全てを観念し、3月3日ブレストリトウスク講和条約条約に調印した。

条約は 1)領土の割愛 2)バルト海、海軍基地の撤去と黒海海軍艦船の抑留 3)捕虜の送還 からなっていた。中心となるのは1)の領土の割愛であり、以下の地域が含まれていた。
1. フィンランド
2. バルト3国
3. ポーランド
4. 白ロシア
5. ウクライナ
6. ベッサラビア
7. トルコと係争中のコーカサス
これは広大な地域だった。

旧軍作成のブレストリトウスク条約による国境の線引き。ただし、クールランド=ポーランド王国を前提とし、白ロシアの東部国境が西にずれ、また北にのびている。これらの点は条約では決められていない。またトルコのサンステファノ条約による失地は、帰属未定としている。フィンランドの北部は北極海に達していない。実際はフィンランドは北極海出口を得ており、当時の参謀本部がどのように情報を得たのか不思議である。クールランド=ポーランド王国は独墺間でポーランド処理が終わらないなかで、ドイツが領土を喪失することなくポーランドが海への出口を保有する意味で有力だった案である。

そして1992年ソ連崩壊時の新国境線に酷似しているのに驚かされる。すなわち7はトルコは敗戦にもかかわらず現在に至るまで一部保持している。残りは1フィンランドと3ポーランド、(ただし第2次大戦後は実質ソ連の保護国)を除いて1991年、ソ連の解体とともに独立した。

捕虜の送還はすぐ始まったが旧ロシア政府がオーストリア軍捕虜の名簿を一部紛失したため混乱を極めた。また旧オーストリア兵のうち旧スラブ系で送還を拒否するものが現れ、63万人の帰還で妥協が計られた。しかし大戦中オーストリアの捕虜は220万人といわれる。

ブレストリトウスク条約抄訳

しかし条約は調印されたがドイツ参謀本部は割譲をうけた土地について、独立したところ以外は何も方針をもっていなかった。3月11日ドイツ軍はオデッサにはいった。そして黒海艦隊の戦艦を含む大多数をろ獲した。割譲地域にはドイツ軍の進軍が続き、4月中に北はヘルシンキから南はクリミア半島の先端セバストポリまで占領した。4月29日ウクライナに暫定的に軍政をしくことになりグレーナーが総督に任命された。グレーナーは9月27日ルーデンドルフの後任として、参謀総長に就任することになる人物である。

バルト3国を統合してクールランド王国を作りウィルヘルムU世か皇子が王位につくという案が出されたが、さすがにウィルヘルムU世は拒絶した。リトアニアについてはウュルテンベルグ公爵が王位をうけ、王国として準備が始められた。バイエルンのルプレヒト王太子は東部戦線での戦後処理よりも英仏との条件付き和平をすすめるべきだと、主張し参謀本部から止められた。

5月7日降伏したルーマニアがブカレスト条約に調印し、黒海沿岸をブルガリアに割譲することになった。

一方ドンコサックはクラスノフを首領に反ボルシェビキ軍を組織した。5月16日クラスノフはドイツに武器援助を要請し受け入れられた。一方5月23日イギリスはロシアへの援助物資の確保を目的としてアルハンゲリスク一帯に派兵を決定した。このあたりでは英独で革命にたいする干渉の点で奇妙な一致をみせる。

スパルタクス書簡第11号

更に3日後大事件が起こる。チェコ軍団(6万人)がシベリア鉄道沿線でボルシェビキに抗して、主要駅を占領し始めた。チェコ軍団はロシア軍に属して戦っていたチェコ連隊とオーストリア軍の捕虜となったもののその後釈放されたもので構成されており、シベリア、日本経由で西部戦線に派遣される予定だった。ところがボルシェビキの非協力に怒り、白軍と組むことを決め、鉄道線上で行動を起こした。

シベリア出兵の開始

チェコ軍は当初赤軍より優勢でシベリアからボルガ方面に出て白軍と連絡を付けようとした。6月中東方に移動、7月24日ボルガ川に到着した。また別働隊は7月25日エカチェリンブルグを占領したが、その1週間前、ニコライU世とその家族は、レーニンの指示にもとづき現地の共産党員により惨殺された。

一方レーニンもドイツとの講和に反対する社会革命党員に暗殺されかかり、報復としてスターリンは社会革命党の本拠地とされたボルガ河畔のツァーリチンで無差別殺人をおこなった。ツァーリチンはその後スタリングラード、ボルゴグラードと名が変わる。このようにロシア南部はドイツ軍、赤軍、チェコ軍団・白軍と三つ巴の混乱地帯となった。

8月中連合国干渉軍が活発な動きを見せた。チェコ軍救出を理由にウラジオストクにはフランスの安南軍を皮切りに日米軍が上陸した。またイギリス軍は長躯ペルシャ経由でバクー油田地帯を占領した。

メソポタミア戦線

ここに至るとドイツはまたレーニンとよりを戻し始める。仮に連合国が帝政を復活させると、再び東部戦線が出来かねないと懸念し、再度奇妙な条約をソビエト政府と8月25日締結した。8月25日条約と呼ばれ、ブレストリトウスク条約の補完をなすもので
1. 赤軍はロシア北部で連合国と戦う。
2. ドイツはフィンランドおよびウクライナがソ連を攻撃しないように努める。
3. 黒海における赤軍海軍の活動はドイツの管理下におかれる。
4. バクー油田が再度ソ連に帰した際、生産量の三分の一をドイツに輸送する。
の条項が確認されている。

このような秘密条約を結びながら、レーニン政府は前年12月帝政ロシアの秘密外交文書を公開している。一体、連合国に打撃を与えるのが目的だったのか、それとも他国の世論に共産党について好感をもたせるのが目的だったのか疑問が残る。

この条約以降ドイツ軍にとり東部戦線は完全に解消したかに見えた。それにもかかわらずルーデンドルフは、最後まで50個師団(100万人)を東部に貼り付けていた。理由ははっきりしない。ルーデンドルフにとり条約というのは何も意味せず、軍事力のみが統治を意味したのかもしれない。東部軍参謀長のホフマンは西部戦線への移送を参謀本部に検討を命ぜられ、35歳以上の老兵が中心で送っても無価値だと答えているが、疑問は残る。このころイギリス軍もフランス軍も若年層は新兵を除いて消耗しており、かなりの数がホフマンのいう老兵(=後備旅団むけ)だった。



Magnus,J.P., Russia and Germany at Brest-Litovsk, London, 1919
Wheeler-Benett,J.W., Brest-Litvsk, the Forgotten Peace, March 1918, London, 1938

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