ベルギーの中立侵犯

ベルギーの中立侵犯

ベルギーの中立侵犯

ベルギーの中立侵犯

ベルギーの中立侵犯

ベルギーの中立侵犯

ベルギーの中立侵犯

小モルトケはベルギーの中立侵犯でイギリスが露仏側に立って参戦することは予期していたという。反面、ベルギーが徹底抗戦することは予想外だったとあとで述懐している。

フランスは逆に、8月4日ドイツ軍が独白国境を越えるまでドイツの手口はフランスの手で仏白国境を越えさせ、イギリスの反発をフランスに向けさせる挑発行為と考えていた。フランスから見れば、ただ軍隊の通過の便で2ヶ国を敵に回すことは信じられないことと写った。

アルベール国王の議会演説(1914年8月4日)

もちろん後の長期戦をみれば、小モルトケのイギリス過小評価は致命的な誤りだった。しかしこの時フランスも短期戦のみを予想していた。またフランスにとりイギリスの当初の小さな外征軍(BEF)はあまり重要でなかった。フランスにとり軍事上重要なのはあくまでロシアだった。

ドイツがベルギーの中立侵犯を決意したのは独仏共通国境の要塞地帯を迂回する目的だった。しかしフランスは開戦前のプラン17にそのまま基づきその要塞地帯に突撃し膨大な被害を蒙ってしまう。フランス人は本当にエラン(鋭気)でドイツの要塞地帯を突破できると考えていたのだろうか? いたとしてドイツのように被害をより少なくする方策はあったのか? 

フランスは外交上の合理性に比較して軍事上の合理性に欠けている印象をうける。もちろんフランスのイギリスの立場を尊重し同盟国とする外交はフランスに勝利の栄冠をもたらした。だが、この二つは決定的に矛盾するのだろうか。ほとんど当てにならない同盟軍のために自国軍の被害を拡大したとするならば、国民と兵士に合理的な説明は難しい。

この問題は第2次大戦まで、または現在まで糸を引き、フランス人のイギリス人に対する、やや不穏当な発言となって現れる。すなわちイギリス人はいつもフランス人に先に血を流せと要求する、と。

フランスはまたこのドイツのベルギーへの侵攻を陽動作戦とみて重要視しなかった。ベルギーの再三のわたる援軍要請にも自国国境にドイツ軍が接近するまでこたえていない。しかしベルギーの抵抗はドイツにとり予想外でベルギーを越えフランスに達するのに21日(計画とのズレは4日)かかっている。またベルギー軍は撤退に当たり、橋梁やトンネルを含む鉄道施設を破壊した。これはベルギー領内を侵攻するドイツ軍右翼の兵站線を実質的に馬匹のみとする効果をあげ、マルヌ会戦で大きな役割を果たした。

フランスのこのドイツ軍右翼の軽視はこの後のフロンティアの戦いでも顕著だが要するにドイツ軍の兵力見積もりを誤ったのである。すなわちドイツの予備兵力の使用を過少評価したのだ。タンネンベルグの戦いでもドイツ軍は第1軍団(フランソワ)と予備第1軍団(ベロウ)と非常に紛らわしい命名をしている。

旧陸軍の部隊編制に詳しい方はすぐ理由がわかるはずだが、何と当時のフランス軍は開戦当初この二つを混同したらしい。そのため予備軍団をすべてオリジナル軍団と同一と見なしてしまった。結果として三割がたドイツ兵力を過少にみた。

ドイツ軍は戦時編成とする時に当初軍団を二つにわけ、予備軍団を新たに設立し現役将校を分散配置しかつ砲兵・騎兵もそのまま、または三分の二を分与した。普通であれば当初軍団に欠員が生じた際に予備軍団を補充部隊として用意するのだが、ドイツはそのまま前線におくった。これが小モルトケの秘策でもあったが、長期にわたって、フランスが誤認したことはむしろ予想外ではなかったか。

旧陸軍の場合は日露戦争当時、普通同一番号のまま原師団の約半分を編成地に予備または後備(予備旅団が戦地派遣のとき)旅団として補充のため残留させた。これとほぼ同一の処置である。ただドイツは後備旅団も年齢の高い層を中心に別に組織し要塞等に配置し無駄のない形にした。この郷土連隊方式を貫いたのは日独両国だけだった。このドイツの措置を初めから、敵を欺く目的だとする連合国側の記述があるが誤解である。

ドイツは8月4日朝8時、リエージュから48Km東のゲメリッヒでベルギー国境を突破した。ベルギー軍国境警備隊はすぐに応戦し、長く続く西部戦線の火蓋がきられた。

           アントワープからオランダに到着したベルギー人難民

MAP

だが独・英・仏の三強国ではなくベルギーから見たらどうだろうか。

ベルギーの中立自体は1839年、英・仏・プロイセン・墺・露により保証されていた。古証文ではあるが、ベルギーとアルベール国王は局外中立が可能と信じていた。中立の実質はイギリスの国益から生じたもので、ベルギーを含むフランダース地方とオランダのいわゆる低地諸国(ローカントリーズ)を一強国の支配に任せたくないという意図からだ。

アルベールはしかし中立自体に価値を置き、どの他国の侵犯に対しても徹底的に抗戦するつもりだった。すでに8月2日の無害通行権を要求するドイツの最後通諜を拒絶した。その時アルベールは閣議で、「結果はどうであろうと、拒絶する。我々の義務は国土を守りぬくことだ。この点で間違えてはいけない。」とのべた。

  アルベール国王

あとでアルベールはこの事を聞かれて、ドイツは通行後、撤退すると約束しているが、とても信じられない。そのまま併合するに違いないと考えた、と語っている。結局、ドイツという国の稟性に信頼が置かれていなかったのだろうか。

ベルギー政府に与えられた12時間

ベルギーの動員計画では戦時、6個師団を予定していた。フランスの7月31日の総動員にあわせ、同日深夜総動員令を発した。しかしこの段階では敵が誰か決まらないから、国土三方向に部隊を配置した。すなわちオステンデ(海側)−英、ナミュール(南側)−仏、リエージュ(東側)−独に対する三面配置であった。

しかもベルギー王国軍は長い間の中立と勢力をました社会主義政党の軍事軽視ないし無関心とにより、とても整備されていたとは言えない。

参謀本部の将校は主としてフランスで教育を受けていたから、攻撃精神(エラン)ばかり身につけ、ベルギーの実状とはかけ離れた攻勢作戦計画ばかりを練っていた。ベルギーにとり攻勢は防御姿勢のなかでしか意味がなく、国外で戦うことは国土を失った以降、発生することである。

政治の中心にあったアルベールはこの将校団の陥穽にははまらなかった。しかし、アルベールは国の存在はすなわち、国軍の存在にあるとみなしていた。

このため小さくても国軍の維持のため、全力を尽くし決して英・仏と妥協することがなかった。当初ジョフルの仏軍左翼に位置せよとの要請を拒絶した。さらに1914年の第1次イープル戦でも英軍の予備となることを拒絶し、1917年の攻勢計画にたいし国土の荒廃を招くとの理由で反対した。

さらに1916年から1917年にかけては交渉による和平を模索した。1918年の連合国軍の最終攻勢では、フォシュの指揮に入ったものの、一部英・仏軍を従えたフランダース方面軍の総指揮官となり国土の奪回に成功した。

アルベールは他のヨーロッパの諸国王と異なり、社交界とか豪華建築に興味を示さず、趣味は登山と車の運転と中産階級的だあった。また王妃はバイエルンのウィテルスバッハ家から迎えておりオーストリア=ハンガリー二重帝国フランツヨゼフ帝の皇后エリザベート(シシー)の姪にあたる。シシーは姪をとりわけ愛し、自分の名前を与えたという。結果今なお唯一ウィッテルスバッハ家の血を王家に残す。

アルベールははじめ皇太子でなく兄の死により後を継いだため、青年期の教育はほとんど士官学校等に限られた。このことは別に指揮官として優秀を意味しない。だが指揮官としての才は、ついにベルギー王国軍を不必要な攻勢にさらすことなく全うした一事を以ってして明らかだ。アルベールは戦後1934年山岳事故で死亡した。その死は全ての元連合国政府とベルギー軍民に惜しまれた。

ベルギー陸軍

一方ベルギー王国軍の実態はどうだったのだろうか。
地勢的に非常に危険な場所に位置しているにもかかわらず、経済力に見合った形での軍事能力としてはおそらく西ヨーロッパ最悪だった。             ベルギー軍兵士

抽選による徴兵制度が、一般徴兵制に変わったのが1913年だった。さらに現役期間は15ヶ月と短く、かつ各所帯一名を限度とした。開戦時、現役兵4万8千人と予備役10万人でスタートしたがこれでは6個師団と要塞守備隊は充足できない。         

装備も悪く、各師団に割り当てられた砲兵(野砲)隊は平均6個中隊36門程度で、装備は旧式のクルップ75ミリ野砲だった。これはロシア軍の水準(1個師団あたり48門)をも下まわる。

服装も旧式のフランスより更に古くナポレオン時代と同一だった。すなわち詰め襟の金ボタンのついた上着で、色は赤線入りの紺色だった。ズボンは薄青で、フランダース地方では迷彩どころか浮き上がらせる効果があっただろう。

これは1914年末、暗緑色のイーゼル式軍装に改められた。



Cammaerts,E.,Albert King of Belgiam: Defender of Right, London,1935

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