
| 11/2008 | 上海空爆 | 1937年8月14日、国府中央軍が上海海軍特別陸戦隊本部を急襲した日の翌日、突如、晴天白日の記章をつけた国府軍機が上海市街中心部に250キロ爆弾4発を投弾した。いずれも炸裂し、死傷者は少なくとも2千人を超えた。9月に入り国民政府スポークスマンは、日本機の仕業であると発表した。そして現在に至るもこの事件は「誤爆」であると主張する日本人が絶えない。この事件は誤爆では決してなく、蒋介石の意図的計画的な決心にもとづいている。 |
| 11/2008 | 平出大佐講演 | 昭和16年5月27日、大本営海軍部報道課長平出英夫大佐はNHKでラジオ講演した。内容は、「米国の対英援助の結果は、状況如何によっては、独米開戦に発展する。米国の参戦は、日独伊三国同盟の関係で、我々としては、対岸の火災視するわけには行かぬ。帝国海軍は紛々たる世論に超越して、その軍備の拡充と戦力の充実とに精進している。その整備の状態は、まさに帝国有史以来のものである。必要なる基地は、今や完全なる防備を施し終わって、軽々しく我々に挑戦するものあらば、これを一挙に粉砕せんとする姿勢にある」というものだった。陸軍が対英米にたいしては低姿勢を装うのに比較して好戦的な言辞であった。 |
| 10/2008 | ロジェストウェンスキーはマダガスカルへなぜ向かったのか | バルチック艦隊は、1904年10月15日、ロシア領リバウ軍港を出て、その年の末、仏領マダガスカル島周辺に到着し、3カ月強、北部のうら寂れた湾、ノシベに停泊した。阿片戦争、アロー号戦争、北清事変においても、ヨーロッパから極東に遠征した艦隊はあったが、マダガスカルまたはアフリカ東海岸に長期滞在したケースはない。一体、ロジェストウェンスキーはなぜマダガスカルに行ったのか、またそこで何を待ったのか? |
| 10/2008 | 東郷ターンの真実 |
日本の常識は、艦隊司令官は単縦陣になった艦隊の先頭の旗艦の艦橋にたつ。なぜ単縦陣になるかといえば、艦隊全部の艦によって敵の先頭艦を討ち取るためであり、砲術上の必要からであった。日本海海戦における東郷平八郎は、露天艦橋(司令塔の前にある板敷きのデッキ)にたち、単縦陣となった12隻の先頭にあった三笠のさらにその最先頭にたった。 バルチック艦隊司令長官のロジェストウェンスキーも同様に旗艦スワロフの司令塔(艦橋にあって、温室のような狭い場所で装甲はない。弾丸が命中したとき、ガラスなどの破片が飛ぶため、露天艦橋より危険とするのが一般的)にある肘掛け椅子にすわり、艦隊の指揮をとった。 |
| 9/2008 | 第一回ハーグ万国平和会議 | ロシアのクロパトキン陸相は宿敵オーストリアが全軍に駐退機付野砲を配備しつつあることを知った。駐退機がつくと発射速度が6倍に向上する。ロシアは技術的にも財政的にもオーストリアと対抗することは不可能であり、ともかく時間を稼ぎたかった。クロパトキンはまずオーストリアとの軍縮交渉についてムラビヨフ外相に相談した。ロシアの当面の急務は、シベリア鉄道と東支鉄道を完成させ、旅順艦隊をもって西太平洋を制覇することであった。ムラビヨフは二国間会議ではロシアの意図が見破られてしまうため、多国間会議はどうかと提案した。これに陸相またウィッテ蔵相も賛成した。こうしてロシアは多国間の軍縮会議を提案することになった。 |
| 9/2008 | 独ソ戦情報 | 1941年6月2日、大島駐独大使はベルヒテスガデンの山荘にヒトラーに呼ばれ、「自分はソ連にたいし譲歩することは常に絶対禁物と信じている。自分は相手に敵意のあるのをみとめれば常に相手より先に刀を抜く男である」といわれた。バルバロッサ作戦に関する公式の通知であった。ところが松岡外相以下、東京の陸海軍首脳はどうしても独ソ戦勃発を信じる気にならなかった。ヒトラーに騙され続けて、何をいわれても本当かどうかわからなくなっていたのである。 |
| 8/2008 | ロカルノ条約 | 1924年、イギリス総選挙で保守党が圧勝、第二次ボールドウィン内閣が成立し、外相にオースチン・チェンバレンが任命された。フランスのルール占領が失敗に終わり、ドーズ案が締結されるとイギリス国民は、ヨーロッパの紛争に再度巻き込まれたくない気持ちが生じた。そして不可侵、すなわち国境を接する二つの国が、互いに侵略しない(=先制攻撃しない)という条約が締結されれば、戦争は発生しないという幻想が生じた。その幻想の実現がロカルノ条約であり、パリ不戦条約である。 |
| 8/2008 | 松岡訪ソ訪独 | 1941年4月、松岡洋右はドイツ経由、ソ連に向かい、日ソ中立条約(松岡・モロトフ協定)を締結した。ヒトラーはそれより前、バルバロッサ計画について松岡には教えないよう指示していた。リッペントロップは一生懸命、独ソ戦について曖昧にしながら勃発することを強く示唆した。自信満々であるが感受性の鈍い松岡はリッペントロップの示唆がついにわからなかった。松岡はベルリンでヒトラーの指示をうけ、そのまま動くと信じて疑わないスターリンとモロトフは、モスクワに戻った松岡の日ソ協定に熱心な態度をみて、ドイツの先制攻撃はないと強く信じ込んだ。バルバロッサ作戦発動直後のソ連軍損害200万はこの直接の結果である。 |
| 7/2008 | 6・22ヒトラーの演説 | 1941年6月22日、ヒトラーはバルバロッサ作戦の攻勢作戦計画を発動させた。同じ日、ヒトラーはラジオ放送のためマイクに向かった。恒例のように「国家社会主義者諸君!」から始まったが、内容は、モロトフとの外交要求が途方もなく、ユダヤ=ボルシェビキ討伐に乗り出すという図式であった。先制攻撃をかける理由としては迫力が欠けるが、宮廷外交の延長である最後通牒や外交官の引き上げといった手続きを排したともいえる。先制攻撃に先立ち最後通牒を出せば、航空攻撃における奇襲は成立せず、攻撃側は奇襲開戦が当然なのである。 |
| 7/2008 | 首山堡の戦闘 | 1904年8月30日、遼陽外周に築かれたロシア軍第2陣地に日本軍第2軍・第4軍の総員約10万人が総攻撃をかけた。堅固に築かれた陣地への正面攻撃であり、ものの見事に失敗した。この中で戦死した橘周太と翌日、満座が見る中、崖を攀じ登った市川紀元二は2階級特進を果たし戦争英雄となった。 |
| 6/2008 | ビヨルケ密約 | 1905年7月、ポーツマス会議が開催される直前、ニコライ二世とウィルヘルム二世は、フィンランドのビープリ近くのビョルケ海峡で密会した。ロシア海軍は対馬で全滅し、護衛艦も随伴できなかった。傷心のニコライ二世は「独露攻守同盟」を提案されると、それに飛びついた。ドイツとロシアはポーランドがなければ妥協できるのである。駐独武官大島浩は、1936年、この密約からユーラシア同盟を着想し、日独伊ソ4カ国同盟が成立できると踏んだと回想した。 |
| 6/2008 | 5・30事件 | 在華紡と呼ばれる上海の綿紡績工場に共産系オルグが浸透し、工場幹部へテロを加える事態が発生した。イギリス人が主導する租界警察は、暴徒に対して銃撃を加えた。それによる死者が出ると、反在華紡運動は反英運動に転換した。北京政府や国民党までが反英を叫び、広州では大暴動に発展した。それを好感した日本人在華紡経営者は、親中・反英に日本の外政は転換すべきと絶叫した。外国に低賃金目当てで工場をつくり、その商売繁栄で国政に介入しようとしたのである。 |
| 5/2008 | コルサコフ海戦 | 黄海海戦が終了するとロシア旅順艦隊は四分五裂となった。戦艦隊はツェザレウィッチを除いて旅順に戻り残余の艦艇は南に逃れ中立港で抑留される道を選んだ。ノーウィックもドイツ領膠州湾に逃れたが、24時間滞留ののち決然と当初訓令の通り、ウラジオストックにいくことを決心した。だが済州島沖で艦影が発見されると、東郷平八郎は対馬と千歳を追跡に向かわせることを命令した。それからは、双方が固唾を呑む追跡戦が開始されることになった。 |
| 5/2008 | ワシントン会議 | アメリカ議会は最終的に国際連盟加入を否認した。ウィルソンの後任であるハーディングは「元のアメリカに戻ろう」といい海軍軍縮問題と太平洋問題を討議するためにワシントン会議を提案した。軍縮問題の主軸は英米の対立であった。アメリカは第一次大戦中建造済みのイギリス戦艦の廃棄をも求めたのである。日本は恵まれた立場にあって、5:5:3という良好な比率と西太平洋の優越した地位を得ることができた。今でも、日本ではこの会議は軍縮が主題であったとされる。ところが国民にはみえない所で駐米大使幣原喜重郎は中国問題で、理解不能なほど大幅な譲歩を繰り返していた。 |
| 4/2008 | 宇垣一成辞職の謎 | 第一次近衛内閣における内閣改造で、広田弘毅に代わり、宇垣一成が外相に就任した。この内閣の課題は支那事変の終息であった。宇垣はカー工作に期待した。蒋介石は継戦意欲を失い、よい条件(近衛)を呈示してきた。一方、陸軍支那通は、汪兆銘工作を遂行しつつあり、汪兆銘・周仏海ら国民政府要人は蒋介石を見捨てつつあった。最終的に近衛は汪兆銘工作をとった。これに伴い宇垣は辞職した。潤沢な陸軍機密費から右翼を雇い、軍事課長影佐禎昭がテロにかけると脅したという噂も消えない。米内光政は「辞めた理由はまず自分の身辺に危険を感じたこと」と原田熊雄に語った。宇垣は戦後に至っても、辞任の真相を明らかにしなかった。影佐の孫が谷垣禎一である。 |
| 4/2008 | 遼陽会戦 | 8月28日、満州軍総司令官大山巌は、遼陽攻撃の準備が整ったとして、遼陽総攻撃の命令を与えた。作戦は両翼包囲で西側翼端にあたる第2軍は、首山堡前面高地に正面攻撃をかけた。攻撃はものの見事に失敗した。東側翼端の第1軍が太子河を渡河すると、クロパトキンは巧みな内線作戦を敢行し、第1軍をほぼ全軍で取り囲んだ。だが、名将黒木は「軍司令官は眠るより外にすることがないではないか」といって守りきった。第2軍と第4軍が遼陽を落とし、ロシア軍の背後に進出しようとすると、クロパトキンは奉天方向に退却した。ロシア軍にとっては、失敗したタンネンベルグになった。 |
| 3/2008 |
アメリカ大統領選挙 (1940年) |
1940年アメリカ大統領選挙はフランスの降伏という劇的な事態のあと進行した。その直前、イタリアがフランスに攻め込むと、1940年6月10日、ルーズベルトはっきりとしたラジオ声明を出した。 「本日、短剣をもった手が隣人の背に振り下ろされた」。 これを境にアメリカ世論は劇的に変化し、不評であった「英仏より中立」策が支持され始めた。それでも欧州戦争介入まではいかず、ルーズベルトは、9月、 「我々は外国の戦争に参加しない。我々は、攻撃された場合を除き、米国領以外の土地で戦うため、我が軍隊を派遣することはない」と公約した。 |
| 3/2008 | ヒトラー・モロトフ会談 | 1940年11月12日、ソ連人民委員モロトフをのせた列車が、ベルリン・アンハルター駅に到着した。駅ではSS儀仗兵が佇立しており、一行の到着とともに、ソ連国歌『インターナショナル』が吹奏された。ナチス党員には元共産党員が多く、この歌は馴染が深かった。会談はイギリス空軍による空襲下3日間続けられたが、モロトフは三国同盟加入について高い代価を支払うことを要求し続けた。ヒトラーは12月18日、ウンターネーメン・バルバロッサを下令した。 |
| 2/2008 | 得利寺附近の戦闘 | 南山の戦闘により、ロシア軍を旅順に退かせると、ロシア満州軍は遼陽と旅順に二分された。早速、第2軍と鴨緑江江からの第1軍は北上を開始した。遼陽で迎撃すべきか、長駆前進し先制するか、ロシア軍内部では論争が生じた。ニコライ二世の決により、先制案が採用された。シタリケルベルクは鉄道を利用して勇躍得利寺に前進し、第2軍を撃破せんとした。しかし、それを察知した日本軍も前進し、初めての不期遭遇戦が生じた。勝敗の決め手は日本軍のハンニバル流の横撃と砲兵隊の間接射撃であった。この戦いは日露戦争中、もっとも徹底した日本軍の完勝であった。 |
| 2/2008 | 米内内閣謎の総辞職 | 1940年5月10日、ヒトラーは西部戦線全線で攻勢に出、1カ月と10日でフランスを屈服させた。日本国内には澎湃と「バスに乗り遅れるな」という声が巻き上がった。ドイツと同盟して敗北したオランダとフランスの東洋植民地を奪えというのである。陸軍参謀本部は別の見地、「ドイツの仲介による蒋介石との和平」からドイツとの関係強化を望んだ。近衛文麿と木戸幸一はこういった声をバックに米内内閣倒閣工作を進めた。 |
| 1/2008 | 南山の戦闘 | 1904年2月8日、日露戦争が勃発したとき、海軍は事前計画にしたがって、仁川と旅順を奇襲した。一方陸軍は、第1期計画として、ソウルをいち早く占領し、北方に展開[鴨緑江以南の作戦にして、韓国の軍事的占領を全くするをもって限度となす](沼田多稼蔵『日露陸戦新史』)としたが、それ以上の計画をもたなかった。北朝鮮とは、泥濘・瘴癘の地であって、大軍の運用は難しい。豊臣秀吉・日清戦争の山縣有朋・朝鮮動乱のマッカーサーと同様の辛酸をなめた。満州に向うには、北朝鮮ではなく、水軍による遼東半島への上陸作戦が重要なのである。 |
| 1/2008 | 松岡・グルー会談 | 1940年10月5日、駐日アメリカ公使グルーは招きに応じて松岡外相を訪問し、2時間15分話をしたが、その大部分ほ非公式で、オフレコードであった。例によつて松岡は会話の95%を独占した。松岡は、英語の会議では、他人の話は聞かず、愚にもつかない自分の自慢話を延々と喋るのが常であった。日本人で英語を喋る人間のうちに、英語を喋ること自体が好きなのか、無内容な英語演説を繰り返す人種は確かにいるが、不幸なことに松岡は外相なのであった。 |
| 12/2007 |
第二次アキャブ戦 殴る天才・花谷将軍 |
満州事変首謀者であった花谷正は、一種の社会主義政治屋将校で、以前から警察にもマークされていた札付きであった。「日本の資本家がだいぶ海外に金を預けてゐてその金が何億に達してゐるといふやうなデマを飛ばす者があり、大學の橋爪といふ教授などは、山形地方に行ってさかんに財閥攻撃の演説をやる。それには山形聯隊の聯隊長始め將校等も聞きに來てゐて、聯隊長の花谷といふ大佐が真先に拍手喝采する」と原田熊雄が書くくらいであった。その花谷も太平洋戦争では中将になり、ビルマ戦線で師団長を務めた。 |
| 12/2007 | 南チロル攻勢 | 1916年2月下旬、ドイツ軍はベルダンで一大攻勢に出た。それに伴って独軍参謀総長ファルケンハインは、オーストリアにイタリア戦線における策応攻撃を要請した。墺軍参謀総長コンラート=ヘッツェンドルフは、1900年代初頭から対イタリア予防戦争を唱えるなど反イタリア感情が強く、渡りに船であった。 |
| 11/2007 | スティムソン宣言 | 満州事変は「諸国民の戦い」の面があった。日本国民は中国におけるテロに嫌気がさし復讐の念をもっていた。石原莞爾の「南無妙法蓮華経」をたてての満州クーデターは国民の支持があったのである。洋をまたぐアメリカでも大恐慌からの回復が急がれ、僻陬の満州の事件に興味をもつむきは少なかった。知日派でもあったスティムソン国務長官だけがケロッグ=ブリアン条約をたてに異を唱えた。 |
| 11/2007 | 料亭「桑名」密談 | 昭和13年9月7日、六時半、料亭桑名にて近衛文麿(首相)、木戸幸一、原田熊雄、松平康昌、津輕〔英麿〕後室〔照子〕が会食した。そのあと近衛と木戸は別室にこもった。ちょうどカーイギリス駐北京大使から蒋介石政権との居中調停の話がきていたが、両者は拒絶することで一致した。このあとの外国をたてての正規の外交ルートを使っての支那事変和平交渉は昭和16年4月からの日米交渉である。 |
| 10/2007 | 大場鎮附近の戦闘 | 支那事変の緒戦において、陸軍は初期配備に重大な失態を犯した。すなわち蒋介石の主攻方面を北支と上海を取り違えたのである。モルトケの格言では「当初配備の失敗はあとで取り戻すことができない」。上海を包囲する国府軍の鎖鑰はどこか?これを発見し、攻撃し、総崩れに追い込んだのは全て現地軍であった。 |
| 10/2007 | 石原莞爾批判 | 支那事変初期配備失敗の責任者は参謀本部作戦部長石原莞爾である。蒋介石が国府軍主力を上海に振り向け、上陸【しゃんりく】を攻撃するに及んでも、日本が外国から攻撃されることを想像できなかったのである。現代にもつながる日中友好ボケ・平和ボケからくる危機管理失敗の嚆矢であった。 |
| 9/2007 | 十月事件 | 9月17日、橋本と大川周明は赤坂の料亭「鶴屋」で酒を飲んだ。大川は自宅に戻り、橋本は鶴屋に流連した。朝、目が覚めると新聞に事変第1報が掲載されていた。橋本は、自身のクーデターも急がねばならないと思った。「ここにおいて、ぼくは、内地の一大革新を断行して政府を更迭しなければ、満州事変は成功せぬと考え始めた。そこで、着々と政府転覆計画を企画し始めた」(『橋本手記』)。 |
| 9/2007 | 昭和25年のクーデター事件 | 昭和25年(1950年)9月、国会で社会党の猪俣代議士は、大橋法相にクーデター計画があるのではないかと迫った。「新潟県下におきまして最大の発行部数を持つております新潟日報の紙上に、この辻政信が朝鮮事変前に現われて、士官学校の卒業生を全部集めて、われら立つべき時が来たというような演説をやつたということもあるのであります」。 |
| 8/2007 | 大学七博士意見書 | 1903年6月、戸水寛人・富井政章・金井延・寺尾亨・高橋作衛・小野塚喜平次・中村進午の東京帝国大学教授、学習院教授は桂太郎首相に意見書を提出した。内容は、外交を即刻停止してロシアと開戦せよというものであった。七博士は十分な情報がなく、また日本政府の妥協案「満韓交換論」をロシアは拒否し、あくまでも朝鮮半島全域支配にこだわったことについて無知であった。そのうえ法理を十分に理解していたとはいえない。このようなものが人心に影響を与えたとは思えないが、学校教科書にも掲載される定番の事件である。 |
| 8/2007 | カンブレーの戦闘 | 1917年11月20日、イギリス第3軍司令官ビンはカンブレー西南を走るヒンデンブルグ線を奇襲した。方法は従来の準備から始まる砲兵援護射撃下の歩兵の突撃ではなく、タンクの突出前進と歩兵の追随であった。攻撃は一時的に成功し、幅16キロ深さ10キロの大突破をなしとげた。確保した面積は、数倍の歩兵と古い方法で戦われた第3次イープル戦(パッシェンデール戦)より大きかった。 |
| 7/2007 | 第1次北伐 | 蒋介石の一貫した主張は北伐であった。中山艦事件そのものの原因も北伐に反対したソ連派遣要員との争いであった。ただし、「国民党も共産党もボルシェビキ」であって、蒋介石はじつは熱心なレーニン主義信奉者でもあった。ボルシェビキの考え方から「統一」は出てこない。蒋介石の思想に一番影響があったのは、日本であるのかもしれない。熱心に主張した「新生活運動」はまるで、日本式生活様式の導入である。蒋介石にとり、北伐=北京にいくことは、戦国武将が京都を目指したのと同じようなものだったのかもしれない。 |
| 7/2007 | 第2次北伐と済南事件 | 1927年7月、蒋介石は失脚、故郷の奉化県に帰り、そのあと日本で宋美齢と結婚、新婚旅行をしたのち、1928年1月4日、国民革命軍総司令に復職した。国民党の北伐のスローガンは、「軍閥を応援する日英帝国主義打倒」であった。蒋介石の日本滞在中、このスローガンが「本気」であると考える日本人はおらず、大多数は蒋介石を歓迎した。だが、山東省済南で、2200人の在留邦人めがけて国府軍兵士が略奪に及ぶと、邦人保護を命令された陸軍は何かをせねばならなかった。 |
| 6/2007 | 旅順口の攻略 | 土城子の戦闘の翌日、第2軍(大山巌)は、隷下にあった本土で動員中の第2師団をまたず、1個師団半のまま、旅順口攻略を目指すことにした。清軍は約1万2千と見積もられた。1894年11月21日、旅順口総攻撃に移った。戦闘はあっけなく終了し、夕刻に市街に突入した。だが、市内は恐ろしい惨状を呈していた。民間人家屋の大半が略奪をうけ、遺体が道路を覆っていた。清兵は戎衣を脱ぎ捨て、便衣を得るため民間人家屋を襲撃したのだ。翌朝から金州街道両側では全山敗兵で覆われる状態となった。 |
| 6/2007 | 海城攻防戦 | 川上操六参謀次長は冬季作戦に関連して、10月下旬、新たな方針を打ち出した。その方針とは、直隷平原における決戦であった。川上は冬営し、鴨緑江を大きく越えず、春になって天津周辺で決戦に出ようとした。第1軍司令官山県有朋は反対した。清国から講和の声があがっている以上、海城を占領し敵に消耗を強いて、講和を有利に進むべきというのである。けっきょく、山県の建策は採用されたが、明治天皇は統帥を乱したして山県を革職した。 |
| 5/2007 | トレムボウリャ西方におけるロシア第11歩兵師団の反撃 | 1915年5月、ゴルリッツ=タルノウで大敗すると、露軍はサン河を渡り東を指して退却した。7月に入ると、独軍はマッケンゼン指揮の下、北方、ブレストリウスクに向い、墺軍はそのまま東に向った。露軍はレンベルグをめぐって侵攻してくる墺軍と一戦を交え、敗退、9月、セレト河附近まで退却を余儀なくされた。だが、これだけの大敗北にもかかわらず、露軍は戦う力を失っていなかった。9月6日、露軍はトレムボウリャ西方で小さな反攻戦を起した。 |
| 5/2007 | チェンバレン外交 | ジョセフ・チェンバレン(オースチンとネビルの父)は、ほとんどゼロからスタートした企業家であった。仕事はボルト・ネジ製造で、一時は、日本にまで輸出していた。自由党最左派として政界入りし、内政面で業績をあげた。だが本人の志望は外交であった。植民相として全般的な外交に携わり、ドイツとの同盟を指向した。そして中国問題では日本との同盟をも追求した。すなわち日英同盟の先駆者なのである。 |
| 4/2007 | ボーア戦争 | 1899年10月11日、トランバールとオレンジ共和国がイギリスに要求した最後通牒の期限が到来し、ボーア軍はナタルに侵攻した。つまり、この戦争はボーア人の侵略よって開始された。ボーア人は増派イギリス軍が到着する前にケープ植民地を全面占領することを目論み、また増派そのものをヨーロッパ諸国の介入により止めることができると予想した。それまでの外交はチェンバレン植民相とミルナー高等弁務官によって担われたが、チェンバレンやミルナーの方針は常に高圧的であって、「敵の頬をたたく」以外の譲歩を行なわなかった。 |
| 4/2007 | アロー号戦争 | 阿片戦争を終了させた南京条約第二条にはイギリス領事と清国官憲の間に対等な外交関係が発生すると読める文言があった。ところが中国側は驚くべき解釈を持ち出した。すなわち、外事について担当する両広総督は、自らの判断で、イギリス領事と面会せず、通信も北京に取り次がないことができる、といいだした。そのうえ、イギリス人と中国人の間の喧嘩騒ぎがしばしば起こった。清国地方官吏は「夷漢雑居して、平民が殴打事件を起すのは、犬が兎を追うようなものだ」と言い放った。清国の官吏が民衆の排外意識を助長し利用する傾向は既に始まっていた。 |
| 3/2007 | コルフ事件と迷い犬の戦争 | 1923年8月27日、ギリシャ・アルバニア国境線紛争調停のため、イタリア代表団4人がギリシャ領内イオニアを訪問した。ところが国境線に向かい走行中、道路に倒木があり、車を降りたところ、何者かが現れ4人を射殺した。現在に至るも犯人は不明である。8月31日、ムッソリーニは海軍をコルフ島に派遣、艦砲射撃を加え、そののち海兵隊を上陸させ占領した。ギリシャ側には15人の民間人死者が出た。ギリシャ政府は国際連盟に提訴したが、問題は連合国10人委員会に付された。審決は「ギリシャの賠償金支払いと謝罪」であった。ギリシャは受け入れ、イタリア軍も、9月27日、コルフ島を撤退した。 |
| 3/2007 | 阿片戦争 | 阿片戦争はイギリス帝国主義の象徴のようにいわれる。太平洋戦争が終了すると、アメリカ人はイギリス人に香港を中国に返還すべきだとして「香港はあまり正当な手段で取得したとはいえませんな」といった。イギリス人は「さて、あの戦争が起きたのは貴国がカリフォルニアを取得したころでしたな」といったという。アメリカ人は正当でないと思い、この戦争を原因をもって名づけた。すなわち「阿片戦争」と。 |
| 2/2007 | 左宝貴神話 | 左宝貴といっても現代日本で知る人はほとんどいないだろう。ところが中国の歴史教科書をみる限り、察哈爾事変の傅作義、朝鮮動乱の彭徳懐などを差し置いて、左宝貴に最もスペースが割かれている。左宝貴は日清戦争のさいの平壌包囲で出撃し戦死したのであるが、同時に同僚を監禁するなどの暴挙を働いており、戦闘結果とあわせて英雄とするには欠けるところがあるようにみえる。 |
| 2/2007 | ジェームソン蜂起とクルーガー電報事件 | ジェームソン蜂起は1895年起きた、イギリスによるボーア人のトランバール共和国への武装侵攻事件である。侵攻そのものは失敗に終り、イギリス南アフリカ会社が賠償金を支払って終了した。ところが、この事件が誰の指示によって発生したのか、50年以上もの長い間不明であった。ところが1951年、当時の内情を暴露する本が出版され、イギリス政府部内で認可したのは、ジョセフ・チェンバレンであることが判明した。 |
| 1/2007 | 金州城の戦闘 | 明治27年(1894年)9月17日、黄海海戦が終了し、黄海・渤海湾の制海権が確保できるようになり、陸軍は第2軍(大山巌)を結成し、遼東半島占領を計画した。方法は2個師団半、敵前を覚悟しての上陸作戦であった。清軍の士気・兵装が劣弱であることを見通したものであるが、規模において世界史上画期的である。ただし、元寇や唐軍の高句麗遠征など、黄海・東シナ海経由では大規模な上陸作戦が歴史上存在した。地中海のような内海的な側面があるのかもしれない。 |
| 1/2007 | デイリー・テレグラフ事件 | 1908年10月、ウィルヘルム二世はイギリスのデイリー・テレグラフ紙にインタビューに応じ「いかに自分が親英論者である」かを述べたてた。ところが、このインタビューの内容がドイツで報道されるや、ウィルヘルム二世にたいする轟々とした非難が巻き上がった。釈明を余儀なくされた皇帝は、それ以降、急速に政治上の権能を奪われることになった。大衆は反英を望んでいたのである。 |