別宮先生
月刊『MOKU』8月号(黙出版)の対談記事頁中の先生の写真がとてもカッコ良い。さすがプロのカメラマン! あっちこっちで宣伝し度いと思います。
さて、「近畿師団いじめ」のお話をおうかがいし、偶懐するところがございましたので、はじめにいきなり余談をさせてください。
WWII中、米陸軍長官のスチムソンが「京都だけは爆撃するなよ」と主張したと伝えられていますのは、これは野生の想像では、天皇か皇太子が京都に疎開することを米政権の最高幹部として望んでいたのではないでしょうか。つまり、講和の話ができそうなマトモな相手はもう皇室だけであると、真珠湾の直後からずっと考えていた。
おそらく皇室も、対米戦はやれば必敗であると、昭和16年の秋にはもうご承知であった。だから「四方の海…」の詠歌を、御前会議の記録に残されているんでありましょう。
そのご意向は、米国政府幹部には、何らかの筋道で伝わっていたんだと思います。
次に、第二次大戦では、なぜ大阪連隊は、終始ラクをしているのか? そして、日本で唯一の「陸軍懲治隊/陸軍教化隊」は、なぜ姫路(兵庫県)にあるのか? ---という疑問でございます。
江戸開府いらい、関東政権への反逆の拠点は必ず京都になるはずと考えられ、京都での武器や浪人の取締りは特にキビシかったと申します。
明治政府もその見方を踏襲し、京都ではながらく「剣術道場」すら禁止でした。そこがアンチ・薩長の不満士族のアジトになるのではないかと心配した(この話は『武道通信』の前の号で致しております)。
だから最も手に負えない反政府的なプライベートを矯正する施設を近畿につくったのも、納得はできるのですが……。
兵庫県姫路市の姫路城の周囲に、明治9年に大阪から「歩兵第10連隊」が転営しています。
明治29年には、姫路、鳥取、福知山をホームとする第10師団が創設され、明治31年にはその師団司令部が姫路に設けられました。
そして、「陸軍懲治隊」は10師団創設とともに出来たと申しますので、それは日清戦争後ということになりましょう。
似たような施設として、「○○衛戍監獄」がございましたが、これは頭に地名がつき、全国の師団司令部所在地等にございました。(後に「衛戍刑務所」と改名されたようです。)むろん、東京市内にもこれはあったわけであります。
しかし姫路の「懲治隊/教化隊」は、とてもそれら衛戍監獄/衛戍刑務所では矯正できないような札付きが全国から送り込まれたのであります。特に左翼カブレが多かったそうでございます。
懲治隊は、姫路城の「野里門内」に建てられ、大正12年末には「陸軍教化隊」と改称。海軍からも受け入れております。
スタッフは、少佐1、中尉3、曹長1、軍曹4、隊付き上等兵20が全国の師団(ただし北海道と近衛のぞく)から輪番で派遣されて参りました。いずれも模範兵ばかり。
教化卒は、常に20人前後。これが帝国のワースト20というわけでしょう。それを教導感化しようとした。
出身地ですが、明治39年から昭和6年までの統計で、66名の大阪を筆頭に、以下、東京、福岡、広島、兵庫、熊本、神奈川、京都までが20名以上、以下すべての県にまたがり、最後は青森と沖縄の各1名でありました。
日本のアナーキズムは、あきらかに西日本に重心があったのであります。
罪状は「逃亡罪」が多く、「軍用物毀棄」がそれに次いだそうです。水兵の場合は「後発艦(航)期」で、これは陸軍の逃亡にあたるのでしょうか。
陸海軍刑法によるもののみでなく、一般刑法、たとえば「窃盗罪」を犯した者も来たそうです。
「衛戍刑務所」から転送されてくる者もあり、中には衛戍刑務所と教化隊をいったり来たりして満期まで過ごす凄い者もいたようでございます。
以上の出典を備忘したメモが行方不明で、どの文献にそんなことが書いてあったかをここで提示できないのが実に恐縮でございます。
どなかかの兵隊小説の中に、こんな記述がありました。
---大阪や神戸の兵隊が稀に激戦地に送られた場合に、その団結の崩壊は顕著なものがあった。
病人を誰も助けようとせず、まだ生きている戦友から靴、地下足袋をはぎ取り、飯盒、食糧を奪ってしまう。
これを当時の言葉で「個人世帯化」と表現していた---と。
つまり、「ニッポン・スタンダード」とはまるで異なった共同体意識のようなものが、大阪にはあった(今もある?)のか、とでも想像する他ないのですが……。
ちなみに、イギリスには戦後も悪名高い「海軍矯正所」があったんだそうであります。
これについてビル・メイレンという英国人が1972年以前にTV用脚本と小説にしているそうでございまして、そのタイトルは「ザ・ディビジオン」だとか。あまりに暴力的ということで、グラナダTVでは1年間お蔵入りだそうです(その後の消息不明)。
さて、九九式小銃である…(司●風^^;)。
零戦でも大和でもサンパチ銃でも何でもそうですが、技術の戦争はシーソー・ゲームでございまして、ある「製品」の技術的優位はそう長くは続きません。相手のいる競争ゆえ、一時の勝者となるためには一時の「幸運」が必要なんであります。即ち「自分より敵の方がバカだった期間」という幸運が……。これが「時に遭う」ということなんでございましょう。
30年式歩兵銃をつくった有坂成章(1915没)も、時代に翻弄されつつ、最終決算では「幸運」だったと言える造兵将校です。
彼の没後に「尖鋭&ボートテイル」弾(=D弾、S弾)が普及したわけです。正確には、1912年3月のバルカンで、トルコ軍の7.5mmライフル(ドイツ製)が初使用したのですが、この新意匠によりまして、6.5mm前後の「小口径高速ライフル」の優位性は、無くなってしまったように見えたんであります。
かいつまんでご説明しましょう。
小銃弾の威力は、弾重には単純比例するだけですが、弾速にはその二乗に比例して増すんであります。
たとえばヒグマの頭蓋骨は、10匁くらいの「イッキダマ」火縄銃でも貫通はできませんでした。手負いになるだけで、逆襲されてしまうのです。したがいまして、トリカブトを塗った矢を用いたアイヌたちから、明治前半頃までの銃猟家たちまで、熊の頭は決して狙わなかったんであります。胴体の真ん中を狙いました。
ところが近代「ライフル銃」を猟銃となしましたことで、熊の頭蓋骨はやすやすと破砕できるようになった。さしものヒグマも、脳を吹っ飛ばされますと即倒してくれますから、いらい熊撃ちは、ライフルで頭を狙うのが基本になっております。
さて、日露戦争までの各国の歩兵達がいちばん心配であったのは、「馬体重500kgの巨大な怪物をギャロップで飛ばしてくる、槍を持った敵の大騎兵集団の襲撃を、自分らの貧弱なテッポウで止められるんかよ〜?」だったんであります。
幕末の輸入銃に「白みがき」フィニッシュが多かったのは、日光をピカピカ反射する長い棒がたくさん揺れていれば、馬がそれを見て驚いてくれるだろうと信じられていたからです。つまり、歩兵が騎兵をおそれることは、それほどであった。
馬は銃創には比較的に鈍感といわれておりまして、たとえば首を横からライフルで貫通されても倒れません。馬を前から射って即倒させるためには、馬の骨を破砕しなければならないのであります。心臓だって、前から投影してみれば、しっかりと骨でガードされているわけであります。脳もそう。そして、「馬の脚」です!
この馬の脚こそが最も頑丈なパーツなんであります。ということは、そこさえ破砕できる威力が小銃弾に与えられたなら、もう正面からどこに弾丸を命中させても敵の馬は倒れてくれるだろうと期待ができた。騎兵団の襲撃を、歩兵部隊のライフルで阻止できることになるわけです。
そこで、19世紀後半の各国軍は、歩兵銃を開発したり採用したりするときに、必ず「馬の脚の骨を射つ」テストを入念に繰り返しております。
馬の骨を粉砕し得る威力ならば、中に水が詰まった人間の頭蓋骨など勿論ひとたまりもない。文字通りバラバラであります。
まだ球弾を低速で飛ばしていたナポレオン戦争では、遠くから飛んできた弾丸で歩兵の脳味噌がブチまけられるなんてことはあり得ませんでした。人間の額の頭骨を小銃弾が数百mで貫通することはなかったんです。だから金属ヘルメットは流行らなかった。
しかし、馬を倒せるライフルの開発が、「銃創」の概念も一変させました。ヒトの頭蓋骨は、1000m以上からでも、当たれば貫通されることになった。
有坂が採用した6.5mm弾は、馬の骨を破砕できる、世界で最も低コストの弾薬でした。それは高速でしたから低伸し、腰をかがめて近付いてくる敵歩兵に対する命中期待率も良好でした。7.62mmのロシアの小銃は、もちろん馬の骨を破砕できますが、高速にできず、低伸しなかった。
ところが、それはお互いに「蛋形弾」(先は丸まっており、ケツは金太郎飴を包丁で断ち切っただけの、かなり細長な棒状の、空気抵抗が大である物体)を発射している間のお話だったんであります。
フランス人とドイツ人は、日露戦争直後に、「尖鋭&ボートテイル」弾を完成してしまいました。寸詰まりなので軽く、したがって高速に加速されます。そして、空気抵抗による減速がなかなか生じない。
これは腔綫に食い込む部分が短いため、当初は「首振り飛行」をしがちで、狙撃精度の点で具合がよくなかったんですが、それが解決されさえしたら、低伸性は俄然、良かったわけです。
7.62mm(ロシア軍と米軍)や7.92mm(ドイツ軍と支那軍閥)の弾丸は、当たったときのパンチ力はもともと6.5mmよりも大きかったわけです。しかし低伸性と集弾精度がよくなかった。それが、パンチ力がある上に、低伸性もあることとなりました。
もしロシア軍が、この新型弾丸で捲土重来してきたなら、こんどは「奉天会戦」は日本の負けとなる懸念が生じます。(日露戦争の旅順攻囲戦は、専ら砲弾と手擲爆弾と銃剣による戦いで、有坂銃の貢献度は低かったのですが、満州の平地戦では、有坂銃と南部の機関銃こそが勝因でした。)
日本もあわてて「尖鋭&ボートテイル」の「38式小銃弾」を明治45年に制定することになりますが、これを大々的に実験した満州事変で、予期せぬ不評が生じた。
どうも、「機関銃から発射したときの威力が、良くない」というのです。それは、パンチ力が無い、というだけの話じゃ、ありませんでした。
敵はモーゼル小銃からも機関銃(三脚重機と二脚軽機あり)からも、7.92mm弾を発射してくる。これが日本軍陣地の上空を擦過するときの音がとても凄かったそうです。
ところが38式小銃や38式重機、3年式重機、11年式軽機から発射する6.5mm弾(尖鋭&ボートテイルの38式小銃弾)の擦過音は、いかにも迫力不足でした。
すでに野戦では、じっさいの命中殺傷よりも、「塹壕から追い立てる」心理的威力が小火器では大事となっていた。特に機関銃はそのためにあったようなものです。その心理的な「追い立て」の作用が弱かったというわけです。---「シナ兵が、ぜんぜん逃げて行かんぞ!」
ここで注意が要るのは、機関銃は、銃身冷却の必要から、小銃よりバレルが短く、よって初速は小銃より劣るのが普通です。しかし「弾束」で敵兵を包みますから、敵兵は確率論を悟り、単発小銃で狙い撃たれたよりも百倍恐怖するわけです。
200m以内の近接戦で、小銃で人間を狙撃して殺すためだけなら、6.5mmで十分でした。それは38式小銃の長さすらも必要ではなく、38式騎銃の短銃身でも十分だった。あそこまで銃身を短くできたのは、6.5mmだからで、まさに司馬遼太郎も洞察したように、38式騎銃こそは世界に誇れる名小銃だったんです。(7.62mm〜7.92mmでこの短銃身にしようとすれば、まだガスが高速で膨脹している最中に弾が飛び出すこととなりますので、音、光、反動、すべてがとんでもないものになってしまったでしょう。)
しかし、「敵兵を擦過音や着達音の効果で守備陣地から追い出し、逃走させる」心理作用を重視すれば、6.5mm弾は落第とされたんです。特に、バレルが歩兵銃よりも短い3年式重機から発射した場合に、それが痛感された。もちろん、敵のMG(各種輸入品あり)と比較してです。これが満州事変でした。
満州事変の後には、イタリア軍が、それまでの6.5mmをやめて7.35mmに変えております。(カルカノにも2種類あったわけです。ケネディを殺ったのは7.35mmですが、弾尾をわざと重く作り、人体内では弾丸が横転を起こして傷を大きくするように細工していました。ちなみに西ドイツのNATO弾は、ジャケットの側面の一部を微妙に薄くしてあって、人体内でそれが四裂して傷を大きくする細工がしてあったようですから、欧米には恐ろしい伝統があります。)
昭和13年に報道された、このイタリア軍の大口径化の決定というニュース……。これによって、昭和前期の列強では、日本一国だけが小口径弾を使っていることになってしまった。支那事変はたけなわ、そしてソ連赤軍は大増強中です。
ついに陸軍は、昭和14年に歩兵銃を7.7mmにすることに決めた。これが99式小銃であります。
ご承知のように、この口径では、歩兵銃と騎銃を同じ長さで共用させることになりましたので、新たに「小銃」と呼称したわけです。
まあ、このタイミングは、あとから振り返れば最悪だったんですが、当事者としたらしょうがなかったのです。
昭和12年からの支那事変で、軍の予算は青天井になったも同然でしたので、この際だ、一気にやっちまえ---ということになったんです。
ではなぜ7.7mmなのか?
WWIでは連合国は、フランス(8mm体系です)もアメリカ(7.62mm体系です)も、全員、英国の7.7mm(.303インチ)弾と機関銃をそのまま「航空機関銃」として使用せざるを得ませんでした。即ち、ヴィッカーズ(固定)と、ルイス(旋回)を使ったわけです。
この7.7mmの航空機関銃を、WWI中に日本の陸海軍も、そっくり(飛行機ごと)輸入をしまして、さらに陸海別々に、コピー生産まで始めておりました。弾の生産も「89式実包」として着手していました。89とは皇紀2589年、ですから「零式」より11年前、つまり昭和元年です。
そんな次第で、もしも小火器を増口径するとなったら、すでに弾薬量産体制が立ち上がっている7.7mmにするのが穏当でした。
しかしここから、日本陸軍は、予想もしなかったメリットとデメリットを享受することになりました。
一つは、三脚重機関銃の世界最高傑作のひとつ、「92式重機」が生まれた。(余談ですが、ミシンや編み機の「ジューキ」は、もともと戦時中にこの92式重機関銃の量産に加わっていた日野の会社だったというのはちょっと有名な話でありましょう。)
92式重機は、基本的には、6.5mmの3年式重機を7.7mmにボア・アップしたようなもの。いわばマイナー・チェンジです。(このボアアップが必要だという認識は大正9年からあって、それはヴィッカーズではなく3年式を航空機関銃にできないかという南部麒次郎の思惑だったと思います。)
その3年式重機は満州事変で大不評だったのですが、昭和7年制定のこの92式重機は、一転して帝国陸軍の救世主的存在となった。
あまりにもパフォーマンスが素晴らしいので、昭和20年の敗戦まで、日本陸軍の兵器体系は、軽機中心ではなく、「92式重機」中心に構成されたほどです。
ではそのどこが素晴らしかったか。これを解説してくれる人が1995年までどこにも居ませんでした。
で、野生が同年に解説した。『日本の陸軍歩兵兵器』(もうじき『武道通信』のデジタル本にもなります)です。
一行でまとめます。「それは三脚付きのバースト射撃式狙撃銃だった」。
ガ島や沖縄で米軍の旅団長以下の将官クラスを射殺したのは92式重機です。軽機ではそれは不可能な仕事でした。敵もまさか当たるとは思ってない距離からやられるわけです。それほど集弾性が抜群だった。7.62mmや7.92mmは、7.7mmより強装でしたので、震動が激しく、よって米軍にもドイツ軍にも「狙撃」に使えるマシンガンなどあり得ませんでした。(ドイツなどはサクッと重機など捨ててしまっています。)
92式重機は殺人的に重いのですが、その重い三脚火器から弱装の7.7mm弾をキツツキのようにゆっくりと撃ち出したのが、じつはとても良かったのです。
列強中、最低の弾薬生産能力しかなかった日本が、あの支那事変で破産せず、ノモンハンでイーヴンにもちこみ、大東亞戦争で米英を同時に敵に回して3年も粘れたのは、まったく92式重機のおかげです。唯物的説明すぎると批判されようと、それ以外に説明はつかんと野生は思っております。
あのナポレオンの足元にも及ばぬ阿呆な歩兵科将校共にどうしてうまい戦争がやれたか。ナポレオンがツーロンの丘に大砲をひきあげるには、陣頭で砲兵たちを鼓舞する必要がありました。が、この92式重機様の場合は、大隊長が「重機前へ」と伝令に伝えさせるだけで、重機中隊のガタイの良い歩兵たちがエッチラオッチラ、必ず推進してくれたんです。長は、市ヶ谷で習った教科書どおりの命令を下すだけで、万事よかった。それほど日本の歩兵さんは、「無理が利いた」んであります。
のちにこれを阿呆なエリート参謀共が大砲や戦車にまで拡大適用しようとしたときは、大砲や戦車は決して言うことを利いてくれません。「無理なものは無理」だったんであります。だから東條などはヤケをおこし、関東軍の戦車連隊は役立たずだとしてこれをバラバラにし、歩兵部隊に数両づつ分属させるという、ドイツ軍とは逆をやってみせてくれております。
自分の頭を戦車に合わせようという考え方はできなかった。
あの一木支隊のガ島の突撃発起を作機した重火器。哀れにも、それは数門の50mm重擲と、この92式重機だけでした。歩兵砲すら支隊長がジャングルを歩くスピードに追及して来られないので置き去りにしている。そこを重機だけは忠実に追及してくるんであります。ただ「命令された」が故に!
また支那軍にもこの真似は不可能でした。支那軍は、最初から「個人世帯」であり、チームで1梃の機関銃の責任を最後まで持つなんていうパフォーマンスはありえなかったからです。
以上が7.7mmのメリット。
その反面では、デメリットが生じました。
ひとつ。歩兵連隊内の使用弾薬は統一しなければいけないとの強迫観念+役人的利権追求心から、7.7mmの99式小銃という駄作を作り、かつ、正式採用してしまった。
もともと92式重機が登場したときは、重機だけが7.7mmで、歩兵銃と軽機は6.5mm。重機中隊は段列が別ですので、それでも問題無かったんです。
ただ、支那事変で全面的な「弾不足」が起きた。重機のタマがなくなったときに、他のライフルマンからタマを融通してもらえた方がいいと、痛感されたわけです。
たとえば大東亞戦争中、日本軍の陣地が支那兵の大軍に取り囲まれて孤立した。こういうときは、すべての弾薬をライフルや軽機ではなく、重機班に集めて射って貰った方が、敵を有効に阻止し得たというのは、事実だったんであります。
が、それにしては99式小銃は、日本の限りある戦争資源を、無駄に喰い過ぎたきらいがあります。
99式小銃には厳密には数種類あり、最初は「長小銃」というものも試製されていました。これをスコープ付きの狙撃銃にしたら、反動が緩和されるので、意味はあったかもしれません。しかし、短小銃の方は、日本人には反動がきつすぎた。
たとえば我が「64式小銃」は、“.308NATO”弾(7.62mmのM1ガランドの実包の薬莢長を半分にしたもの)を、さらに自衛隊が独自に2/3減装にしたものですけれども、それですらキツいのですよ。
反動がキツいと、そのショックを予期して全身の筋肉が硬直し、ガク引きとなり、2脚を使用するか、さもなくば地物に委託した射撃としないかぎり、単射では絶対に当たらないものです。
当たらぬ単発小銃に、何のメリットがあったでしょうか? その製造費用は、ぜんぶ、重機用弾薬と、軽機の増産に充当した方がマシでしたろう。
デメリット、その2。
航空用機関銃の弾薬として、じつは英式7.7mmは最も非力で、そのために米軍機の12.7mmには勿論、7.62mm後方旋回機銃にも、日本機は撃ち負けることになった。(ハリケーンは、その非力な機関銃を多銃とすることで補ってたわけです。)
空で負けたら、陸で粘っても無駄だったわけです。
オマケにもうひとつ。これは司馬遼太郎に批判されても仕方のないことでしたが、日本の戦車は、この7.7mmに耐弾できれば良いと考えていた節があります。ところが支那事変になって、蓋をあけたら、支那兵のドイツ式7.92mm弾にブスブスと貫通された。
これについて、要塞専門家の長岡外史のエピソードを思い出します。トーチカの耐久試験をするのに、日本陸軍の重砲弾そのままで撃ってひたすらデータを採っている部下を、長岡は叱ったというのです。
「なぜ、敵が持ち出してくる筈の、ロシアやドイツの重砲をシミュレートしないのか」と。
あたりまえですよね。ところが、日本の造兵将校には、こんな着眼が無かったようなんです。
計算能力はあったんでしょう。しかし「科学」的に考える力は、大正〜昭和の量産エリート達には足りなかった節が、ややあります。
長くなりました。おしまいに愚問です。
有事の際の「日本政府の疎開」については、どう御考えですか?
聞くところでは、海自が2万トン級のヘリ空母を複数つくるんだそうですが、これは野生の直感では、核戦争時の「移動官邸」の機能を持たせたいのだろうと想像致します。
つまり、核戦争時の政府中枢は海上に逃れれば良いのだという結論に、日本政府は到達したのではないかと思います。
もちろん、首相以下、キャビネットの要人は努めて分散的に、別々のヘリ空母に分乗するのでしょう。
これは野生は、合理的な結論だ、と評価したいのですけれども……。