兵頭二十八と別宮暖朗の往復書簡

TwentyEight & Inglenook

No3

03/8/9・・・#30

別宮先生

 月刊『MOKU』8月号(黙出版)の対談記事頁中の先生の写真がとてもカッコ良い。さすがプロのカメラマン! あっちこっちで宣伝し度いと思います。

 さて、「近畿師団いじめ」のお話をおうかがいし、偶懐するところがございましたので、はじめにいきなり余談をさせてください。

 WWII中、米陸軍長官のスチムソンが「京都だけは爆撃するなよ」と主張したと伝えられていますのは、これは野生の想像では、天皇か皇太子が京都に疎開することを米政権の最高幹部として望んでいたのではないでしょうか。つまり、講和の話ができそうなマトモな相手はもう皇室だけであると、真珠湾の直後からずっと考えていた。
 おそらく皇室も、対米戦はやれば必敗であると、昭和16年の秋にはもうご承知であった。だから「四方の海…」の詠歌を、御前会議の記録に残されているんでありましょう。
 そのご意向は、米国政府幹部には、何らかの筋道で伝わっていたんだと思います。

 次に、第二次大戦では、なぜ大阪連隊は、終始ラクをしているのか? そして、日本で唯一の「陸軍懲治隊/陸軍教化隊」は、なぜ姫路(兵庫県)にあるのか? ---という疑問でございます。

 江戸開府いらい、関東政権への反逆の拠点は必ず京都になるはずと考えられ、京都での武器や浪人の取締りは特にキビシかったと申します。
 明治政府もその見方を踏襲し、京都ではながらく「剣術道場」すら禁止でした。そこがアンチ・薩長の不満士族のアジトになるのではないかと心配した(この話は『武道通信』の前の号で致しております)。

 だから最も手に負えない反政府的なプライベートを矯正する施設を近畿につくったのも、納得はできるのですが……。

 兵庫県姫路市の姫路城の周囲に、明治9年に大阪から「歩兵第10連隊」が転営しています。
 明治29年には、姫路、鳥取、福知山をホームとする第10師団が創設され、明治31年にはその師団司令部が姫路に設けられました。
 そして、「陸軍懲治隊」は10師団創設とともに出来たと申しますので、それは日清戦争後ということになりましょう。

 似たような施設として、「○○衛戍監獄」がございましたが、これは頭に地名がつき、全国の師団司令部所在地等にございました。(後に「衛戍刑務所」と改名されたようです。)むろん、東京市内にもこれはあったわけであります。

 しかし姫路の「懲治隊/教化隊」は、とてもそれら衛戍監獄/衛戍刑務所では矯正できないような札付きが全国から送り込まれたのであります。特に左翼カブレが多かったそうでございます。

 懲治隊は、姫路城の「野里門内」に建てられ、大正12年末には「陸軍教化隊」と改称。海軍からも受け入れております。
スタッフは、少佐1、中尉3、曹長1、軍曹4、隊付き上等兵20が全国の師団(ただし北海道と近衛のぞく)から輪番で派遣されて参りました。いずれも模範兵ばかり。
 教化卒は、常に20人前後。これが帝国のワースト20というわけでしょう。それを教導感化しようとした。
 出身地ですが、明治39年から昭和6年までの統計で、66名の大阪を筆頭に、以下、東京、福岡、広島、兵庫、熊本、神奈川、京都までが20名以上、以下すべての県にまたがり、最後は青森と沖縄の各1名でありました。

 日本のアナーキズムは、あきらかに西日本に重心があったのであります。

 罪状は「逃亡罪」が多く、「軍用物毀棄」がそれに次いだそうです。水兵の場合は「後発艦(航)期」で、これは陸軍の逃亡にあたるのでしょうか。
 陸海軍刑法によるもののみでなく、一般刑法、たとえば「窃盗罪」を犯した者も来たそうです。
 「衛戍刑務所」から転送されてくる者もあり、中には衛戍刑務所と教化隊をいったり来たりして満期まで過ごす凄い者もいたようでございます。

 以上の出典を備忘したメモが行方不明で、どの文献にそんなことが書いてあったかをここで提示できないのが実に恐縮でございます。

 どなかかの兵隊小説の中に、こんな記述がありました。
 ---大阪や神戸の兵隊が稀に激戦地に送られた場合に、その団結の崩壊は顕著なものがあった。
 病人を誰も助けようとせず、まだ生きている戦友から靴、地下足袋をはぎ取り、飯盒、食糧を奪ってしまう。
 これを当時の言葉で「個人世帯化」と表現していた---と。

 つまり、「ニッポン・スタンダード」とはまるで異なった共同体意識のようなものが、大阪にはあった(今もある?)のか、とでも想像する他ないのですが……。

 ちなみに、イギリスには戦後も悪名高い「海軍矯正所」があったんだそうであります。
 これについてビル・メイレンという英国人が1972年以前にTV用脚本と小説にしているそうでございまして、そのタイトルは「ザ・ディビジオン」だとか。あまりに暴力的ということで、グラナダTVでは1年間お蔵入りだそうです(その後の消息不明)。

 さて、九九式小銃である…(司●風^^;)。

 零戦でも大和でもサンパチ銃でも何でもそうですが、技術の戦争はシーソー・ゲームでございまして、ある「製品」の技術的優位はそう長くは続きません。相手のいる競争ゆえ、一時の勝者となるためには一時の「幸運」が必要なんであります。即ち「自分より敵の方がバカだった期間」という幸運が……。これが「時に遭う」ということなんでございましょう。
 30年式歩兵銃をつくった有坂成章(1915没)も、時代に翻弄されつつ、最終決算では「幸運」だったと言える造兵将校です。

 彼の没後に「尖鋭&ボートテイル」弾(=D弾、S弾)が普及したわけです。正確には、1912年3月のバルカンで、トルコ軍の7.5mmライフル(ドイツ製)が初使用したのですが、この新意匠によりまして、6.5mm前後の「小口径高速ライフル」の優位性は、無くなってしまったように見えたんであります。

 かいつまんでご説明しましょう。
 小銃弾の威力は、弾重には単純比例するだけですが、弾速にはその二乗に比例して増すんであります。
 たとえばヒグマの頭蓋骨は、10匁くらいの「イッキダマ」火縄銃でも貫通はできませんでした。手負いになるだけで、逆襲されてしまうのです。したがいまして、トリカブトを塗った矢を用いたアイヌたちから、明治前半頃までの銃猟家たちまで、熊の頭は決して狙わなかったんであります。胴体の真ん中を狙いました。

 ところが近代「ライフル銃」を猟銃となしましたことで、熊の頭蓋骨はやすやすと破砕できるようになった。さしものヒグマも、脳を吹っ飛ばされますと即倒してくれますから、いらい熊撃ちは、ライフルで頭を狙うのが基本になっております。

 さて、日露戦争までの各国の歩兵達がいちばん心配であったのは、「馬体重500kgの巨大な怪物をギャロップで飛ばしてくる、槍を持った敵の大騎兵集団の襲撃を、自分らの貧弱なテッポウで止められるんかよ〜?」だったんであります。

 幕末の輸入銃に「白みがき」フィニッシュが多かったのは、日光をピカピカ反射する長い棒がたくさん揺れていれば、馬がそれを見て驚いてくれるだろうと信じられていたからです。つまり、歩兵が騎兵をおそれることは、それほどであった。

 馬は銃創には比較的に鈍感といわれておりまして、たとえば首を横からライフルで貫通されても倒れません。馬を前から射って即倒させるためには、馬の骨を破砕しなければならないのであります。心臓だって、前から投影してみれば、しっかりと骨でガードされているわけであります。脳もそう。そして、「馬の脚」です!

 この馬の脚こそが最も頑丈なパーツなんであります。ということは、そこさえ破砕できる威力が小銃弾に与えられたなら、もう正面からどこに弾丸を命中させても敵の馬は倒れてくれるだろうと期待ができた。騎兵団の襲撃を、歩兵部隊のライフルで阻止できることになるわけです。

 そこで、19世紀後半の各国軍は、歩兵銃を開発したり採用したりするときに、必ず「馬の脚の骨を射つ」テストを入念に繰り返しております。
 馬の骨を粉砕し得る威力ならば、中に水が詰まった人間の頭蓋骨など勿論ひとたまりもない。文字通りバラバラであります。

 まだ球弾を低速で飛ばしていたナポレオン戦争では、遠くから飛んできた弾丸で歩兵の脳味噌がブチまけられるなんてことはあり得ませんでした。人間の額の頭骨を小銃弾が数百mで貫通することはなかったんです。だから金属ヘルメットは流行らなかった。
 しかし、馬を倒せるライフルの開発が、「銃創」の概念も一変させました。ヒトの頭蓋骨は、1000m以上からでも、当たれば貫通されることになった。

 有坂が採用した6.5mm弾は、馬の骨を破砕できる、世界で最も低コストの弾薬でした。それは高速でしたから低伸し、腰をかがめて近付いてくる敵歩兵に対する命中期待率も良好でした。7.62mmのロシアの小銃は、もちろん馬の骨を破砕できますが、高速にできず、低伸しなかった。

 ところが、それはお互いに「蛋形弾」(先は丸まっており、ケツは金太郎飴を包丁で断ち切っただけの、かなり細長な棒状の、空気抵抗が大である物体)を発射している間のお話だったんであります。

 フランス人とドイツ人は、日露戦争直後に、「尖鋭&ボートテイル」弾を完成してしまいました。寸詰まりなので軽く、したがって高速に加速されます。そして、空気抵抗による減速がなかなか生じない。

 これは腔綫に食い込む部分が短いため、当初は「首振り飛行」をしがちで、狙撃精度の点で具合がよくなかったんですが、それが解決されさえしたら、低伸性は俄然、良かったわけです。

 7.62mm(ロシア軍と米軍)や7.92mm(ドイツ軍と支那軍閥)の弾丸は、当たったときのパンチ力はもともと6.5mmよりも大きかったわけです。しかし低伸性と集弾精度がよくなかった。それが、パンチ力がある上に、低伸性もあることとなりました。

 もしロシア軍が、この新型弾丸で捲土重来してきたなら、こんどは「奉天会戦」は日本の負けとなる懸念が生じます。(日露戦争の旅順攻囲戦は、専ら砲弾と手擲爆弾と銃剣による戦いで、有坂銃の貢献度は低かったのですが、満州の平地戦では、有坂銃と南部の機関銃こそが勝因でした。)

 日本もあわてて「尖鋭&ボートテイル」の「38式小銃弾」を明治45年に制定することになりますが、これを大々的に実験した満州事変で、予期せぬ不評が生じた。

 どうも、「機関銃から発射したときの威力が、良くない」というのです。それは、パンチ力が無い、というだけの話じゃ、ありませんでした。

 敵はモーゼル小銃からも機関銃(三脚重機と二脚軽機あり)からも、7.92mm弾を発射してくる。これが日本軍陣地の上空を擦過するときの音がとても凄かったそうです。

 ところが38式小銃や38式重機、3年式重機、11年式軽機から発射する6.5mm弾(尖鋭&ボートテイルの38式小銃弾)の擦過音は、いかにも迫力不足でした。
 すでに野戦では、じっさいの命中殺傷よりも、「塹壕から追い立てる」心理的威力が小火器では大事となっていた。特に機関銃はそのためにあったようなものです。その心理的な「追い立て」の作用が弱かったというわけです。---「シナ兵が、ぜんぜん逃げて行かんぞ!」

 ここで注意が要るのは、機関銃は、銃身冷却の必要から、小銃よりバレルが短く、よって初速は小銃より劣るのが普通です。しかし「弾束」で敵兵を包みますから、敵兵は確率論を悟り、単発小銃で狙い撃たれたよりも百倍恐怖するわけです。

 200m以内の近接戦で、小銃で人間を狙撃して殺すためだけなら、6.5mmで十分でした。それは38式小銃の長さすらも必要ではなく、38式騎銃の短銃身でも十分だった。あそこまで銃身を短くできたのは、6.5mmだからで、まさに司馬遼太郎も洞察したように、38式騎銃こそは世界に誇れる名小銃だったんです。(7.62mm〜7.92mmでこの短銃身にしようとすれば、まだガスが高速で膨脹している最中に弾が飛び出すこととなりますので、音、光、反動、すべてがとんでもないものになってしまったでしょう。)

 しかし、「敵兵を擦過音や着達音の効果で守備陣地から追い出し、逃走させる」心理作用を重視すれば、6.5mm弾は落第とされたんです。特に、バレルが歩兵銃よりも短い3年式重機から発射した場合に、それが痛感された。もちろん、敵のMG(各種輸入品あり)と比較してです。これが満州事変でした。

 満州事変の後には、イタリア軍が、それまでの6.5mmをやめて7.35mmに変えております。(カルカノにも2種類あったわけです。ケネディを殺ったのは7.35mmですが、弾尾をわざと重く作り、人体内では弾丸が横転を起こして傷を大きくするように細工していました。ちなみに西ドイツのNATO弾は、ジャケットの側面の一部を微妙に薄くしてあって、人体内でそれが四裂して傷を大きくする細工がしてあったようですから、欧米には恐ろしい伝統があります。)

 昭和13年に報道された、このイタリア軍の大口径化の決定というニュース……。これによって、昭和前期の列強では、日本一国だけが小口径弾を使っていることになってしまった。支那事変はたけなわ、そしてソ連赤軍は大増強中です。

 ついに陸軍は、昭和14年に歩兵銃を7.7mmにすることに決めた。これが99式小銃であります。
 ご承知のように、この口径では、歩兵銃と騎銃を同じ長さで共用させることになりましたので、新たに「小銃」と呼称したわけです。

 まあ、このタイミングは、あとから振り返れば最悪だったんですが、当事者としたらしょうがなかったのです。
 昭和12年からの支那事変で、軍の予算は青天井になったも同然でしたので、この際だ、一気にやっちまえ---ということになったんです。

 ではなぜ7.7mmなのか?
 WWIでは連合国は、フランス(8mm体系です)もアメリカ(7.62mm体系です)も、全員、英国の7.7mm(.303インチ)弾と機関銃をそのまま「航空機関銃」として使用せざるを得ませんでした。即ち、ヴィッカーズ(固定)と、ルイス(旋回)を使ったわけです。

 この7.7mmの航空機関銃を、WWI中に日本の陸海軍も、そっくり(飛行機ごと)輸入をしまして、さらに陸海別々に、コピー生産まで始めておりました。弾の生産も「89式実包」として着手していました。89とは皇紀2589年、ですから「零式」より11年前、つまり昭和元年です。
 そんな次第で、もしも小火器を増口径するとなったら、すでに弾薬量産体制が立ち上がっている7.7mmにするのが穏当でした。

 しかしここから、日本陸軍は、予想もしなかったメリットとデメリットを享受することになりました。

 一つは、三脚重機関銃の世界最高傑作のひとつ、「92式重機」が生まれた。(余談ですが、ミシンや編み機の「ジューキ」は、もともと戦時中にこの92式重機関銃の量産に加わっていた日野の会社だったというのはちょっと有名な話でありましょう。)

 92式重機は、基本的には、6.5mmの3年式重機を7.7mmにボア・アップしたようなもの。いわばマイナー・チェンジです。(このボアアップが必要だという認識は大正9年からあって、それはヴィッカーズではなく3年式を航空機関銃にできないかという南部麒次郎の思惑だったと思います。)
 その3年式重機は満州事変で大不評だったのですが、昭和7年制定のこの92式重機は、一転して帝国陸軍の救世主的存在となった。

 あまりにもパフォーマンスが素晴らしいので、昭和20年の敗戦まで、日本陸軍の兵器体系は、軽機中心ではなく、「92式重機」中心に構成されたほどです。

 ではそのどこが素晴らしかったか。これを解説してくれる人が1995年までどこにも居ませんでした。
 で、野生が同年に解説した。『日本の陸軍歩兵兵器』(もうじき『武道通信』のデジタル本にもなります)です。
 一行でまとめます。「それは三脚付きのバースト射撃式狙撃銃だった」。

 ガ島や沖縄で米軍の旅団長以下の将官クラスを射殺したのは92式重機です。軽機ではそれは不可能な仕事でした。敵もまさか当たるとは思ってない距離からやられるわけです。それほど集弾性が抜群だった。7.62mmや7.92mmは、7.7mmより強装でしたので、震動が激しく、よって米軍にもドイツ軍にも「狙撃」に使えるマシンガンなどあり得ませんでした。(ドイツなどはサクッと重機など捨ててしまっています。)
 92式重機は殺人的に重いのですが、その重い三脚火器から弱装の7.7mm弾をキツツキのようにゆっくりと撃ち出したのが、じつはとても良かったのです。

 列強中、最低の弾薬生産能力しかなかった日本が、あの支那事変で破産せず、ノモンハンでイーヴンにもちこみ、大東亞戦争で米英を同時に敵に回して3年も粘れたのは、まったく92式重機のおかげです。唯物的説明すぎると批判されようと、それ以外に説明はつかんと野生は思っております。

 あのナポレオンの足元にも及ばぬ阿呆な歩兵科将校共にどうしてうまい戦争がやれたか。ナポレオンがツーロンの丘に大砲をひきあげるには、陣頭で砲兵たちを鼓舞する必要がありました。が、この92式重機様の場合は、大隊長が「重機前へ」と伝令に伝えさせるだけで、重機中隊のガタイの良い歩兵たちがエッチラオッチラ、必ず推進してくれたんです。長は、市ヶ谷で習った教科書どおりの命令を下すだけで、万事よかった。それほど日本の歩兵さんは、「無理が利いた」んであります。

 のちにこれを阿呆なエリート参謀共が大砲や戦車にまで拡大適用しようとしたときは、大砲や戦車は決して言うことを利いてくれません。「無理なものは無理」だったんであります。だから東條などはヤケをおこし、関東軍の戦車連隊は役立たずだとしてこれをバラバラにし、歩兵部隊に数両づつ分属させるという、ドイツ軍とは逆をやってみせてくれております。
 自分の頭を戦車に合わせようという考え方はできなかった。

 あの一木支隊のガ島の突撃発起を作機した重火器。哀れにも、それは数門の50mm重擲と、この92式重機だけでした。歩兵砲すら支隊長がジャングルを歩くスピードに追及して来られないので置き去りにしている。そこを重機だけは忠実に追及してくるんであります。ただ「命令された」が故に!

 また支那軍にもこの真似は不可能でした。支那軍は、最初から「個人世帯」であり、チームで1梃の機関銃の責任を最後まで持つなんていうパフォーマンスはありえなかったからです。

 以上が7.7mmのメリット。
 その反面では、デメリットが生じました。

 ひとつ。歩兵連隊内の使用弾薬は統一しなければいけないとの強迫観念+役人的利権追求心から、7.7mmの99式小銃という駄作を作り、かつ、正式採用してしまった。

 もともと92式重機が登場したときは、重機だけが7.7mmで、歩兵銃と軽機は6.5mm。重機中隊は段列が別ですので、それでも問題無かったんです。
 ただ、支那事変で全面的な「弾不足」が起きた。重機のタマがなくなったときに、他のライフルマンからタマを融通してもらえた方がいいと、痛感されたわけです。

 たとえば大東亞戦争中、日本軍の陣地が支那兵の大軍に取り囲まれて孤立した。こういうときは、すべての弾薬をライフルや軽機ではなく、重機班に集めて射って貰った方が、敵を有効に阻止し得たというのは、事実だったんであります。

 が、それにしては99式小銃は、日本の限りある戦争資源を、無駄に喰い過ぎたきらいがあります。
 99式小銃には厳密には数種類あり、最初は「長小銃」というものも試製されていました。これをスコープ付きの狙撃銃にしたら、反動が緩和されるので、意味はあったかもしれません。しかし、短小銃の方は、日本人には反動がきつすぎた。

 たとえば我が「64式小銃」は、“.308NATO”弾(7.62mmのM1ガランドの実包の薬莢長を半分にしたもの)を、さらに自衛隊が独自に2/3減装にしたものですけれども、それですらキツいのですよ。
 反動がキツいと、そのショックを予期して全身の筋肉が硬直し、ガク引きとなり、2脚を使用するか、さもなくば地物に委託した射撃としないかぎり、単射では絶対に当たらないものです。

 当たらぬ単発小銃に、何のメリットがあったでしょうか? その製造費用は、ぜんぶ、重機用弾薬と、軽機の増産に充当した方がマシでしたろう。

 デメリット、その2。
 航空用機関銃の弾薬として、じつは英式7.7mmは最も非力で、そのために米軍機の12.7mmには勿論、7.62mm後方旋回機銃にも、日本機は撃ち負けることになった。(ハリケーンは、その非力な機関銃を多銃とすることで補ってたわけです。)

 空で負けたら、陸で粘っても無駄だったわけです。

 オマケにもうひとつ。これは司馬遼太郎に批判されても仕方のないことでしたが、日本の戦車は、この7.7mmに耐弾できれば良いと考えていた節があります。ところが支那事変になって、蓋をあけたら、支那兵のドイツ式7.92mm弾にブスブスと貫通された。

 これについて、要塞専門家の長岡外史のエピソードを思い出します。トーチカの耐久試験をするのに、日本陸軍の重砲弾そのままで撃ってひたすらデータを採っている部下を、長岡は叱ったというのです。
 「なぜ、敵が持ち出してくる筈の、ロシアやドイツの重砲をシミュレートしないのか」と。
 あたりまえですよね。ところが、日本の造兵将校には、こんな着眼が無かったようなんです。
 計算能力はあったんでしょう。しかし「科学」的に考える力は、大正〜昭和の量産エリート達には足りなかった節が、ややあります。

 長くなりました。おしまいに愚問です。

 有事の際の「日本政府の疎開」については、どう御考えですか?

 聞くところでは、海自が2万トン級のヘリ空母を複数つくるんだそうですが、これは野生の直感では、核戦争時の「移動官邸」の機能を持たせたいのだろうと想像致します。
 つまり、核戦争時の政府中枢は海上に逃れれば良いのだという結論に、日本政府は到達したのではないかと思います。
 もちろん、首相以下、キャビネットの要人は努めて分散的に、別々のヘリ空母に分乗するのでしょう。
 これは野生は、合理的な結論だ、と評価したいのですけれども……。

03/8/2・・・#29

兵頭さま

 司馬遼太郎は「昭和という時代」というテーマで当時の軍部を非難してますが、実はそうではなく当時の門閥つまり重臣層と、昭和天皇そのものに批判的だったのではないでしょうか。こういった人はマルクス主義者にも多く、終戦クーデターを引き起こした稲葉正夫について大江志乃夫は、その資料集めの才を誉めています。

 これは戦前の軍事関係について書く人のとる一般的態度で、現代人にとってはわかりにくいのですが、戦前の外交・軍事の失敗を外交官・軍人に求めるのではなく、それより大きくみえるもの、皇室や重臣層を批判したくなるようです。

 また、マルクス主義者の得意の論法ですが、天皇個人に問題があるのではなく、あのような天皇制であれば、戦争は必然だというのがあります。これは資本主義であれば戦争は必然だというのと同じですが、同時期、戦争がなかったことについては説明できません。今でも小学生が、幼稚園児を殺害すれば社会のせいだと、人権派弁護士が言います。そうであれば、大半の小学生が殺人をしないことが説明できません。

 こういった、「何か説明しているようで何も説明していない」のが得意なのが司馬遼太郎と言っては言いすぎでしょうか。また関西人特有の、天皇や重臣層と距離が遠いことからする特有の思い込みがあります。

 これは一種の逆恨みのようなもので、とりわけ京都・奈良に広範囲に見られる症候群です。この原因は太平洋戦争の陸軍参謀本部のやり方にも原因があります。

 京都師団の第15(祭)はインパールで全滅しており、第16(垣)はレイテで玉砕しています。現在司馬の出身地である奈良(師管区は京都)の田舎を歩くと、軒並み「靖国の母」のステッカーが貼ってあります。

 一方陸軍の参謀将校に、京都・奈良出身者はまずいません。日露戦争の時代から大阪の8連隊、37連隊が弱いという説はあったわけですが、昭和の参謀軍人は重臣への反発から、奈良・京都出身者に敵対心が生まれたのでしょう。226事件にしても不思議なのは外交官を狙うにしても、門閥出身の西園寺や牧野は狙われますが、官僚出身の弊原や広田は問題にされていません。

 この辺りは北一輝など「隠れ」社会主義者の影響もあるのでしょう。社会主義=農本主義=大アジア主義は一連の流れで、戦後左翼や自民党旧田中派もその流れを汲んでいます。

 ところが京都・奈良出身者からみれば、一連の逆境の背後に参謀将校や社会主義者の影を発見することはでぎず、目にみえるものの批判に向かいます。そして司馬遼太郎の場合は国産の戦車でした。

 次は司馬遼太郎の「殉死」のなかの1節です。
「かれ(乃木希典)は他の児童、生徒に対しては院長という立場で臨んだが、この皇孫(昭和天皇)に対してだけはひとりの老いた郎党という姿勢をとった。自然、皇孫は他の者のように希典を恐れず、恐れる必要もなく、無心にかれに親しみ、親しんだればこそ、学校における他の者とはちがい、希典の美質を幼童ながらも感じることができた。希典がこの幼い皇孫に口やかましく教えたのは一にも御質素、二にも御質素ということであった」

 司馬は「希典の美質」と書いていますが、その直前には、「偏執狂」(モノマニヤ)、後に、「前時代人の美的精神をかたくなに守り、化石のように存在させつづけた」と乃木希典の性格を表現しています。

 誰でも、このような人物に子供が「無心に親しむ」ことは危険と感じます。つまりここで司馬は昭和天皇を「質素・質素」としか発想できない人物と批判したいのです。これは自分の乗った戦車が「質素」と思ったことの反映でしょう。

 昭和天皇は決して質素な人物ではありません。新宿御苑と皇居にそれぞれ9ホールのゴルフ場を造らせ、自らと外国使節のためだけに使用しました。500万都市のど真ん中でプライベートゴルフ場をもった人物は歴史上昭和天皇が初めで最後と思われます。

 司馬遼太郎は国産戦車の装甲や砲力が弱体なことを、昭和天皇や戦前の体制が権威的であり貧しいと思い込んだわけです。

 そして、この原因を、参謀将校からの取材によって、究明しようとしたわけです。太平洋戦争を論ずるさい、一番引用されるのが、服部卓四郎です。また、その独特の中国趣味は中国国家主義の権化、陳舜臣の解説から来ています。当然土地問題については「戦後左翼」から得たことでしょう。

 この司馬の態度はジャーナリストが陥りやすい欠陥で、取材した(力のあると思われる)人物から影響されてしまうのです。これは同様な読書態度にもつながります。

 司馬遼太郎が一時、田中角栄的なものにあこがれたことはあったと思います。そして戦後日本を賛美する理由は、いろいろな自由をエンジョイできる点にあり、物質主義的なものの賛美に落ち着いたと思います。つまり自らの(貧弱な)戦車にのった経験から昭和天皇や乃木希典を権威主義的な反進歩主義者=技術革新反対論者とみなしたのでしょう。ただ取材元に注意を怠った。当然、官僚制度のなかにいる人間について一般的注意をすることもなかった。むしろ、戦後日本経済の成功は本田宗一郎、盛田昭夫のような人によったのではなく、通産官僚の成功と思いたかったのかもしれません。

 同様に、(マル歴)教師は日本経済の成功は政府・日銀の傾斜生産方式と折からの朝鮮動乱のおかげだと言います。同時期にソニーのトランジスタラジオはGEの真空管ラジオを駆逐していたのですが・・・。この事態とM4タンクと97式の差が、せいぜい10年の差としてピンと来ないのでしょう。同様に昭和37年に日本の鉄鋼生産能力はアメリカを抜いたのですが、では、この時アメリカと戦争すれば勝てたのかなどとは想定しなかったと思います。

 そこで質問なのですが、日露戦争では日本の技術陣は兵器のブレークスルーをやっているように見えます。とりわけ30式歩兵銃などは代表例です。昭和30年以降も民生用で見せつけています。ところが第二次大戦では「大和」にしてもただ大きくしたような印象があります。また99式小銃などは改悪ではないでしょうか。

 そして、司馬遼太郎が戦車について批判してくれましたが、99式小銃については、まだ誉める人がいるので驚きです。これは何に理由があるのでしょうか?

03/7/26・・・#28

別宮先生

 このジャンルの作品群にほとんど興味がないため、雑感しか申し上げられませんけれども……。
 現在、いわゆる「if戦記」を読んでいる人たちがいるとしたら、もはやその内容に感心したいがために読んでいるのではありますまい。
 「なんだこの作者はこの程度のことしか考えつけんのか」と、自分の雑学知識の高低の位置付けを確認するために読んでいるのではないかと思います。
 ところが、その素晴らしい突出した己れの該博さを世に立証する手段には何があるかといったら、おそらく2チャンネルへの書き込みか、あるいは、似たり寄ったりの「if戦記」を自分で新たに執筆するしかないのでしょう。つまり「読者=著者予備軍」であるという大構図があるのではないかと思います。

 日本では「未来戦記」は日清戦争前後から出版されています。猪瀬直樹氏ら、多くの人がこの分野に興味を抱き、研究をまとめておられます。
 しかし80年代、90年代の「if戦記」大量生産ブームの意味について考えた論考
は、『戦記が語る日本陸軍』(宗像和広、1996)に寄稿した野生のコラムの以後、あるんでしょうか?
 日本のディスコ・ブームと、この「if戦記」の全盛がピタリ重なるのはなぜなのか? それは文系男子の世相反動的なバンカラ・ムーヴメントであったのでしょうか?
 ともかく、需要構造は未だに明らかにされていないように思われます。

 近代日本の私小説に「他者」が不在である、と評論したのは江藤淳でした。
 これをシナリオ用語で言い直しますと、主人公が周囲の誰かとの強い「葛藤」を展開しないのです。
 コンフリクトが無いということは、西洋戯曲作法の考え方に従いますと、それは「ドラマ」になってないということに他なりません。

 ドラマになっていないのは面白くない、消費者サービスにならない、と西洋人は思うわけですね。野生もそれに「全然同意」(旧海軍用語)でございます。
 ところが「if戦記」や「やおい」の作家さんたちには、ドラマを書こうという目的意識はずいぶん希薄な様子です。

 この理由の一つとしまして、それらの作家が武道をやっていないことを指摘する価値はあるでしょう。
 「敵は自由意思を持った人間である」ことが承知されていないのです。他者を生々しく把握できないのです。
 それで、未来についての一方的な都合の良い思惑をセルフ・チェックすることができない。

 最近の異常な社会逸脱型犯罪事件の犯人らと、甚だ近親な欠陥が、その根にあると言うことは許されましょう。
 もちろんその欠陥は、戦後左翼教育が大々的に助長したのであります。

 総合格闘技の「if小説」はあり得ません。

 もうひとつオマケに申せば、ユーモアのセンスの無さ、でしょう。
 『名将・伊地知幸介』とか、タイトルだけで笑わせてくれる企画は、只の一つもありませんね。本人たちは、これは「格好良いだろう」と考えてネーミングに脳髄を絞っている節が見て取れます。
 どうせ大衆小説のさらにサブ・レベルなジャンルなんだから、もっと面白く想像力を使ったらいいじゃないかと思うのですけれども、発想が不自由で、皆まじめなので
す。
 これはかなり怖い。到底、野生などが入りたいと思う世界とは違います。

 ところで、司馬遼太郎の時代と、田中角栄の時代とは、重なりますね。
 それから、田中角栄の時代は、中堅若手官僚(課長補佐クラス?)がデカイ顔をしはじめた時代だと思います。角栄氏はその新興勢力と結託した。
 門閥に対する、成り上がり者同士の結託でした。

 多くの人が指摘しますように、小説『坂の上の雲』は、谷寿夫というエリート陸軍人が、陸軍大学校で将来の参謀たちを前にして兵学(戦史と戦術)の講義をしていたときに用いたノートをまとめた『機密日露戦史』(谷が大佐でいったん予備役編入となる大正14年に初版印刷、ちなみに伊地知が死ぬのは昭6)を参考にしています。
 というか、ほとんど「元ネタ」です。

 この『機密日露戦史』の中で岡山県出身の谷大佐は、吉田松陰の姻戚で、長州閥のブルー・ブラッドであった乃木希典(第三軍)司令官や、大山巌の女婿で、薩閥ゆえに能力と無関係に階級が高かった伊地知参謀を、思う存分に批判し尽くしました。
 そしてその代りに、長州支藩出身の能力抜群の秀才であったが、門地ゆえに比較的不遇であり(たとえば公費留学をさせてもらっていない)、それが祟って出世も遅れてしまった、児玉源太郎を持ち上げた。

 谷がそこで大正時代にずっと吹聴したかったことは、「門閥は、若い能力エリートに実権を譲れ。作戦については一切を下の有能な参謀に任せろ。それを怠ったから旅順のような悪戦となったのだ」と力説するに尽きていたでしょう。

 乃木大将は、日露戦争中は長男と次男を203高地で戦死させ(「ひとり息子と泣いてはいかぬ、二人亡くした方もある」との俗謡ができた)、しかも夫人もろとも明治天皇に殉じ、乃木家の戸籍がぜんぶ×印となっている。大正〜昭和の国民の中で、この乃木さんを悪く言う人などいなかったのです。

 ところが、日本国内に、数すくない例外が存在していました。一つが白樺派(蘇峰いうところの「無戦主義者」)の周辺の文学者(芥川もそこに含められる)。
 そしてもうひとつが、なんと陸大の兵学教官グループだったわけであります。

 つまり昭和前期の乃木無能論は、大正時代の陸大の戦史/戦術の教官を発信源とし、多数のエリート参謀らに受肉され、それが大戦末期の司馬遼太郎氏ら俄か将校連にまで、影響していた。
 けれどもそれは、昭和後期になっても、けっして全国的な認識ではなかったのです。

 司馬氏は、その認識が明瞭にテキスト化されている『機密日露戦史』に飛びつき、児玉源太郎を「鞍馬天狗」(福田恆存の表現)にしています。

 ご承知のとおり、陸大はエリート参謀を養成する機関でした。戦前のエリート参謀でいちばん暴れた少壮のクラスは、戦後の国家官僚でいうならば、課長補佐クラスに相当しますでしょう。
 つまり谷=陸大史観は、「アンチ門閥」で、若手秀才の重用という点で「プロ田中角栄」とも言えるだろうと思います。

 昭和前期はダメな時代だったと語る司馬遼太郎が、昭和前期をダメにした張本人である陸大出のエリート参謀たちと、近代史観を共有しておったわけであります。

 それは何故だったのでしょうか。司馬氏にも、何か昭和40年前後の当時の「門閥」を忌む気分が、あったのでしょうか? 野生の疑問はここであります。
 これは当時の世相をリアルタイムで観察して来られた別宮先生にぜひ、お尋ねを致したいところなのです。

 なお、井上ひさし氏は、やはり乃木大将を扱った戯曲の中で、西南戦争時代の「軍旗」に重い意味など無かったと言いたいようですが、これは大きな誤解であります
(詳しくは『発言者』のバックナンバーをご覧ください)。

 あの軍旗事件では、あきらかに乃木聯隊長は責任を感じて自決をしなければいけなかったのであります。それが長閥の庇護で不問に付されたばかりでなく、報道規制もされました。当時の新聞等を見れば、この件に関しては、まるで戦後のSCAP検閲のような、検閲とは気取られないような事前修正がなされていたことが分るだろうと思います。

 そしてこの軍旗事件の真相が公刊媒体上で語られ出す時期と、昭和前期の谷史観の定着とは、同期しているようにも、野生には思えます。

 それからまた、晩年の司馬氏は、「土地は誰のものか」とも言い出しましたね。
 これは「アンチ角栄」路線に乗り換えたということでしょうが、それは同時に、アンチ秀才官僚でもなければならぬという自認は、果して司馬さんには、あったんでしょうか?

03/7/19…#27

兵頭さま

 ご指摘の通りで、首相は国家公務員を首にできません。

すなわち
第75条(身分保障)
職員は、法律又は人事院規則に定める事由による場合でなければ、その意に反して、降任され、休職され、又は免職されることはない。2職員は、人事院規則の定める事由に該当するときは、降給されるものとする。
第76条(欠格による失職)
職員が第38条各号の一に該当するに至つたときは、人事院規則の定める場合を除いては、当然失職する。
第77条(離職) 職員の離職に関する規定は、この法律及び人事院規則でこれを定める。
第78条(本人の意に反する降任及び免職の場合)
職員が、左の各号の一に該当する場合においては、人事院規則の定めるところにより、その意に反して、これを降任し、又は免職することができる。
1. 勤務実績がよくない場合
2. 心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合
3. その他その官職に必要な適格性を欠く場合
4. 官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合

 国家公務員法は、国家公務員の生活権など基本的人権に属する権利を保障したもので、普通憲法に抵触しない限り、特別法として他の法律に優先します。ただややこしいいのですが、この条文を狙い撃ちにした法律があれば、そちらが優先されます。

 戦後の労働運動が盛んだったころ、社会党や共産党のいわゆる官公労が要求し通過させた法律です。おそらく、このような法律は世界に類をみないでしょう。

 しかし国民が選んだ選良が決めた法律ですから、これを盾にして一部の無法公務員が頑張るのもこれも仕方のないことです。当然、道路公団の総裁も任期中、首相は首にできません。

これではもはや民主主義とは言えないところまで来ているのでしょう。誰か憲法に抵触するとして違憲訴訟を起こすか、与党が法律を改正するよう立法するしかありません。

 実態上この法律で有利になるのは、中央官庁のキャリア組の大臣官房を握っている連中だけです。いわば戦後左翼とキャリア官僚の意識が一致していることの証明です。要するに「共産主義」とは中央官庁キャリア組が国政を壟断することです。これは中国を見ればわかることです。

 またキャリア官僚=大臣官房と言っているのは、もし中央官庁の人事課を掌握できれば、公務員としての欠格事由をなんらかの形で、でっち上げることが可能だからです。陰険な過去の個人データについて握っているのは大臣官房人事課です。勤務成績などはそういった内部管理部署を掌握できればいかようにでも、作り上げることができます。

 ただ無闇に、個人的な野望のためにのみ、国家公務員法を盾にとる輩が続出していますから、そろそろ自ら墓穴を掘るかもしれません。なにしろ首相が命令すると、自分たちの意見に反するとして、「独裁者」「ヒトラー」呼ばわりする連中です。

 ただこの法律も本を正せば「田中角栄」法ですから、運用で改善されても、橋本派がのさばれば、元の木阿弥でしょう。

 民間だろうが、役所だろうが、軍隊だろうが、オフィサーと名前がつく人々が労働法の陰に隠れるということは、卑劣きわまりないことです。この法律も本省の課長以上適用せずとすれば、それで済むことです。

 また国家公務員とは国家公務員試験で採用された人々を言うので、特別職は一切対象になりません。たとえば大学教授はこれの保護の外です。例えばある国立大学の教授会が特定グループに握られていれば、首は起こりえます。つまり戦前の「滝川事件」などは違うところから起こる可能性があります。また本来一番保護されねばならない、アルバイトなどは全く保護の外です。現在中央官庁は、クラリカル・ワークを全部、人員派遣会社と契約してまかなっています。

 また菅直人の「転勤は可能」ですが、降格を伴っては、転勤させることもできません。降格か否かの判断も大臣官房です。大臣が「首だ!」と思ってできることが、栄転では話になりません。


 ところで、漫画も含めて「仮想戦記」が流行しています。なかには荒唐無稽なものも多いのですが、これについてはどう考えますでしょうか?

 個人的は面白ければ小説だから何を仮想してもよいと思っているのですが、「犬は空を飛ばない」と同様に、何か歯止めもあるのかなと思う次第です。また面白いことに作者は、「それは史実に反する、また工学的におかしい」などと批判されると結構ムキになって反論します。

03/7/12…#26

別宮先生

 人助け稼業は、いかにも危険と膚を接しておりますが、実は「危険」イコール、一つの「報酬」なんであろうと想像をします。

 野生の死んだ親父は、N市の消防職員でございましたが、その前はどうも、暴走族orローリング族だったのではないかと疑っております。

 遺っているアルバムを見ますと、ホンダの「ドリーム号」ですとか、当時の2輪車のマフラーを喜々として“直管”に改造している作業が写っていたりしております。
これでN市からはるばる箱根の峠まで行って攻めていた模様です。

 昭和30年代ですから「カミナリ族」とでも言われたことでしょう。(沿道の皆々様方、どうも何ともご迷惑様で、申し訳もごぜえやせん。)
 野生のガキの時分の記憶でも、4輪のチューンナップを飽きもせずによくやっていました。

 さすがに1970年代にはそういうのをふっつりと止め、プラモデル等のおとなしい趣味だけに変えたようでありましたが、それでも、自分は20代の早々にもう大型から2輪までの総ての免許を持っていたんだとか、最初の自動車教習所でいきなり「教官助手」を頼まれた等とうそぶくのを常としていたのであります。

 で、その元族が消防士になったのは何故かと考えるのです。
 やっぱりこれは、危険が楽しいからではないでしょうか。非日常が。

 やはり時々、聞いた話は、若い頃、『今日が俺の命日か』と観念するような消火戦闘をしたというもの。当然のことですが、消防隊員も中年を過ぎたら、火の中に突入するような任務は与えられません。親父の場合はそれで救急隊に再配置された。すると「こんなとんでもない患者を載せた」と自慢する訳です。

 まあ一例からすべてを類推しちゃいけませんけど、殉職された消防士の方々、ご本人はかなり満足できる一生であったんじゃないかと思いますよ。非日常の「公職」に倒れた。

 今のニッポンで、「労災」をとことん避けようと思ったら、安全な職場はナンボでもある訳です。
 しかし、わざわざ特技を習得して、よりによって危険な作業に従事したがる人がいなくなるだろうかと思ったらそんなことは決してない。

 たとえば、これは拙著『日本の高塔』の取材中に知ったことでありますけれども、高圧送電線鉄塔の高所作業中に感電したり墜落したりして亡くなる人が、日本では毎年コンスタントにあるんです。定期的に慰霊祭が行なわれている。
 それを知っているはずなのに、若い成り手がちゃんといるのですよ。

 これと比べましたなら、消防士の殉職なんて滅多に起きていないのですけれども、しかしそもそも消火活動やレスキュー活動が安全な仕事であるわけがない。死亡事故が起きていないのは、若い消防士が危険を巧みに「すりぬけている」からに他ならないのでございます。腕と度胸で。

 つまり、統計学的に考えれば、消防士の殉職事故はいつかは必ず起きる。マニュアルで消防士の危険はゼロにはなりません。消防士とは初めから危険稼業なのです。

 それをどうしてもマニュアルで安全化したくば、簡単です。今のような消火活動・人命救助作業はすっかりやめてしまって、江戸時代式の「破壊消防」(延焼を防止するため風下の民家を先回りしてすべて破却する)だけに徹したら良いでしょう。
 大震災のときは、人々と一緒に安全な他県へ避難したら良いでしょう。

(しかし破壊消防はひょっとして、抜本的デフレ対策になるかも……。東京でボヤが起きたら、それを口実に、消防隊が風下の町を全部均してサラ地に変えてしまう。たちまちいろいろな新需要が生じることでしょう。)

 野生は、人民の声などというものがあるとは思わないのです。あるのはマスコミの声だけです。ですから、マスコミに馬鹿な報道をされないような「話術」が政治家や首長には求められる。然るにこの言語能力が日本のエリートに足りなすぎるから、馬鹿なマスコミ世論がいつまでも続くのです。
 「最高の官僚は、最低の政治家なり」とマックス・ウェーバーが言った、その意味は深い。
 改憲ができないのも、そのためです。

 さあそれならば警官はどうでしょうか。
 野生は以前、某警察専門雑誌上で、検問中の警官に向って自動車で突っ込んでくるような奴はその時点でもう人殺しをしようと企図しているのだから、ナンブM60けん銃でドライバーをしっかり狙ってためらわずに撃て、と寄稿しました。(ひ熊撃ちのベテランも言っていますが、怒っている動物はライフルで胴中を撃たれても死なずに気力で向ってきます。となると、.38スペシャル弾は、マンストッピングパワーに疑問があり、それに初弾が不発のことだって考えられますので、このような咄嗟の場合の最初の射撃は必ず2連射としておくのが統計学的に安全でしょう。北朝鮮ゲリラを警官が撃つ場合もです。)

 銃所持や刀剣の持ち歩きが原則的に禁止されている日本社会で、銃刀を使って人質を取る者がいたら、それは現場の警察官の判断で適宜のタイミングで射殺するのが正当でしょう。これは米国よりも厳しい措置となりますが、日本の社会防衛上は、当然です。

 自動車で突っ込んでくる犯人の場合、こちらにもしも装甲車があったら、ぶつけて止めることができるかもしれませんね。しかし銃の場は、犯人に一瞬、トリガーを引くことを許してしまえば、即座に一人の被害者が生じるかもしれない。それを未然に防ぐ方法は、現場の警察官が先制射殺する以外には、ない筈です。

 もしその警官が射殺をためらっている間に、犯人が手にした銃や刀剣でまた誰かを殺傷してしまった場合には、被害者の家族は、国を訴える資格があるだろうと野生は思います。
 つまり警官の不必要な殉職・公傷は、ある程度マニュアルで防止ができます。

 軍人の場合はどうか。
 自衛隊では「誰何[すいか]」の方法について、2等陸士にまで教えております。

 歩哨線に向って何者かがやってきた。
 歩哨は、まず「誰か」と静かに interrogate します。
 答えがない。
 歩哨は、こんどは「誰か、誰か」とたたみかけます。2回目は早口に、3回目はそれにすぐに続けて、大声で。
 これでも答えがなくば、歩哨は shoot するわけです。

 これは戦時国際法のどこかに「3度誰何」の準則があるからだろうと野生は思うのですが、確認したことはありません。

【参考メモ】 戦時国際法一覧

1864 傷病者についての第一回赤十字条約。

1868 セントピータースブルグ宣言

1899 陸戦法規。空爆禁止。毒ガス禁止。ダムダム弾禁止。

1906 第二回赤十字条約。傷病者に関する。

1907 開戦に関するハーグ第3条約。陸戦法規の慣例条約(ハーグ第4条約)。
     海軍砲撃に関するハーグ第9条約。

1925 毒ガス禁止に関するジュネーブ議定書。

1929 第三次赤十字条約。捕虜の待遇に関し。

1936 潜水艦の戦闘行為に関する条約。

1949 陸戦傷病者保護、海戦傷病者保護、捕虜、文民に関するジュネーブ条約。

1954 ハーグ戦時文化財保護条約。

1977 環境兵器禁止条約。

1980 特定通常兵器使用禁止制限条約。

1993 化学兵器禁止条約。

1997 対人地雷禁止条約。

 アメリカ人は愉快な国民で、十年以上前のPCゲームの『M1バトル・タンク』(米国製)では、敵軍を最強のソ連「親衛軍」に設定しますと、最初のレクチャー場面で「Shoot first, interrogate later!」と上官が諭します。イラクではこれを実践中ではないでしょうか。

 旧軍の金鵄勲章は、かなり濫発気味ではなかったでしょうか。北清事変までは稀少価値だったと思いますが……。
 野生は詳しくありませんが、これにランク上で比肩し得る勲章は自衛隊にもあるはずです。ただ、金鵄勲章は恩給だか年金だかを伴うものでしたけれども、自衛隊ではそれはない。

 野生がこれは是非にも復活すべきだろうと思っていますのは、戦死者の遺産については相続税が全額免除されるという戦前の制度であります。
 それからまた、軍人遺児の学資を国が面倒を見る制度であります。あるいは官営学校への優先入学枠ですね。
 このくらいしてもバチは当たらないはずです。

 函館では残念ながら、朝霞から中波で飛ばしている在日米軍のラジオ放送が聴取できません。しかし関東で聴いていたころは、メダル・オブ・オナー(議会勲章)を授与された米国の過去の兵隊たちの紹介をスポットでランダムに流しており、この政策には感心を致しました。

 このような形での戦死者の永続的「リメンバリング」は、一過性の勲章以上に、大事なことではないでしょうか。

 愚問があります。
 大日本帝国憲法では、内閣総理大臣に国務大臣の任免権が無かったことが、国運のつまづきとなってしまいました。
 では現在の内閣総理大臣には、高級官僚の罷免権を与えなくても良いのでしょうか?
(菅直人氏は自著の中で、大臣には役人をクビにする権限は無いが、転勤を命ずることはできるのだ、と言っているのですが……)

03/7/5…#25

兵頭さま

 二世議員または政治家と聞くと、わが小泉純一郎首相をつい考えてしまいます。この人は(祖父)又次郎(逓信大臣)、(父)純也(防衛庁長官)とつながった家系です。小泉又次郎は憲政会の代表幹事まで務めた、昭和期の代表的党人政治家であり、翼賛会の代議士会長をやったとき、東條英機の引き摺り下ろし工作を実行しました。

 その時の同志が山崎達之輔です。この人は文部官僚ですが、早くに退職しており、その後翼賛政治を推進し、太平洋戦争勃発時には「聖戦貫徹議員同盟」をつくりました。しかし聖戦に勝利するためには、東條では駄目だと考えたわけです。このときの秘書が保利茂であり、その友人が松野頼三です。

 このあたりの、保守系党人政治家というのは、憲兵に追いかけられても戦うという根性があり、またかつての帝政期のドイツや第三共和制フランスの自由主義政治家と比較になるでしょう。

 日本における代表的二世政治家は、だいたいこのような家系から出ているのでしょう。

 小泉の話に戻れば、一度落選したことがあります。これはなぜかと言えば、選挙区がゲリマンダー的変貌をとげ、一度、横須賀市と横浜市金沢区・磯子区が同一の選挙区になったことがあります。その時磯子区の票が入らず落選したわけです。横浜市というのは大半が実は旧武蔵に属します。反面、横須賀市は旧相模です。神奈川県には未だに旧武蔵と旧相模の対立が存在しています。磯子区有権者からみれば相模の人間などに投票できるかという所でしょう。

 ですから、新参者の東京都民が「道州制」だとか「皇居ご動座」などと、思いつきを言ってもなかなか古い住民には相手にされないわけです。

 そして横須賀市も東京のベットタウンと化していますから、人口の動きは急激です。ところが横須賀での小泉への支持はここ25年揺るぎません。この事は、姉君の小泉信子女史を抜きに考えられません。

 小泉家は一切、有権者から不正な金を受け取りません。一昨年ご母堂が亡くなられ、米軍横須賀基地正面ゲート前、どぶ板通りの裏の横須賀会館(なぜか結婚式場も兼ねる)で葬儀が執行されましたが、正面に信子女史が立たれ、参会者(2万人)一人一人に挨拶し、袋を出す人には「先々代から香典は一切受け取らないのがしきたりです」と言って、断っていました。

 そして小泉家は三春町という横須賀の下町にあり、よく海軍の小説に出てくる「パイン=小松」と言う料亭のすぐ先です。そこは国道16号線と、魚市場に挟まれた場所です。ブッシュ大統領はおろか、米第7艦隊司令官も招待するには、どうか?と危ぶまれます。あばら屋とは言いませんが普通の民家です。

 そして、小泉純一郎が陣笠のころ、信子女史はチャリンコで横須賀の急坂を上り下りして、支持者にポスター張りを依頼して回っていました。そして婦人会の会合にはまめに顔を出し、嫁にも行かず頑張っていたわけです。

 実は友人が横須賀の衣笠にいて、ある時、後援会のよしみで、信子女史に頼み事をしたそうです。そう言っても、地元の許認可にかかわる些細なことのようでした。すると信子氏に

「もしそれが国政に関係があることだと考えたならば、もう一度来てください」

と言われたそうです。信子女史がいなければ、若いとき幾度も再選を重ねることは不可能だったと思われます。

 政治家には、ある種の無私の情熱が必要です。すなわち、権力に対する欲望、金銭に対する欲望などとは別に、「国をよくしよう」「国民は満足しているだろうか」「不正や暴力はないか」「夢や希望はもてるのだろうか」という個人の感覚(SENSE)と離れて、考え(IDEA)実行に移すことが必要です。

 これが、いわゆる「官僚あがり」「たたき上げ」には欠けることが多いものです。つまり、官僚あがりは権力を渇望し、たたきあげは金銭を欲望します。

 一方、この面がなければ、選挙区無視となり、また選挙に金をかけられず落選の憂き目にも会います。すると、二世政治家で地元に参謀がいれば、安心して自分の「無私の情熱」に従い、国政を担う政治家として活躍できることになります。

 ただ、国民はこの傾向について承知しています。このため現在でも官僚あがりの亀井、たたき上げの野中には国民の人気が集まりません。ところが、これらの一群と離れて、名門政治家というのがいます。戦前の近衛文麿、戦後の細川護煕などがあげられます。この人々も土台のところの人気はあるのですが、地元などに参謀がいません。

 このため、極端な人気取りの言辞に走ります。つまり政治家としての訓練ができておらず、子供の頃からの薫陶もないのでしょう。結果としてこの二人は大きく国益を損じることになりました。

 今のアメリカの第43代大統領ブッシュも二世政治家であり、イギリスのチャーチルも同じです。もちろん国情は異なり、二世のあり方も違い、また名門や家門についての国民の意識も違うと思います。

 しかし日本における二世政治家、それは地方における名望家の存在と、それを支える家族がいるということでしょう。左翼はこれを日本の封建制の残滓などというかもしれませんが、日本の民主主義を裏で支えているのではないでしょうか。

 嫁にも行かず、酷暑に頑張り、あるいは「家の維持」かもしれませんが、自分を犠牲にして裏方に徹し、国政第一を考えた女性がなければ、(鈴木ムネオのような人物に国政を握られ)日本の良い面は維持できなかったのかもしれません。


  ところで、イラク新法に係わる議論で「そんな危ない所に自衛隊を派遣して死んだり、怪我でもしたらどうするんだ?」というのがありました。また憲法9条の関係で治安維持活動の範囲は非交戦地域での活動に限定するとされています。

 非交戦地域への限定は一種「死んだらどうするんだ」への回答であるようにも聞こえます。そしてイラク戦争の概況説明に失敗した軍事評論家が出てきて、戦争なのだから、交戦地域と非交戦地域を分けることなど不可能だと言っています。

 これは現行の憲法がある限り、不毛の議論です。ただ、猟銃を構えた暴漢を逮捕しようとした警察官について、「やり方が悪い」、火事で老人を救助しようとして殉職した消防士について「マニュアルの整備が遅れた」などと、チンピラ記者が書いています。

 国家や国民の要請にこたえ職務を遂行しようとしている人々への冒涜とも思えるのですが、このような時代趨勢のなかで、憲法が改正できない以上、現実的な解決方法はあるのでしょうか?あまりの公務員への名誉毀損は許されるのでしょうか。また年金付の金鵄勲章復活などの手はあるのでしょうか。これも時代がかっていますが。

03/6/28…#24

別宮先生

 凡そ評伝や伝記小説には、
「主人公は生きている人であるか、故人であるか」
「有名人か無名人か」
「作家は彼を最初から褒めるつもりなのか、なりゆきで評価を下すつもりか、最初から貶そうとする決意か」
   ……の組み合せがあろうかと思います。

 さらに、取材中に遺族に直接インタビューをしたり資料供出を仰ぎ得たものと、遺族とは終始没交渉だったものがあるでしょう。
 この前者も、もっと細かく分ければ、何度も頻繁に訪問してすっかり“家族”になってしまったような場合から、最初の一回の訪問で帰りしなに塩を撒かれた場合まで、さまざまなのではないでしょうか。

 野生は、ある人の評伝を書きたいが、必ずしも褒めるとは決まっていない---。そういうとき、家族に対して「何か資料をください」とはお願いし難いのが、あたり前じゃないかと思うのです。

 ただし、一度もインタビューを試みずに1冊上梓してしまうというのも、後で『こいつは最初から含むところがあったんじゃないか』とか勘繰られたり、大いに話題になったあとで顔を合わすのが気まずくなる場合が当然に予想されますから、もしその遺族の存在がはっきりとしているのなら、やはり外交儀礼として作家は最低1回は訪問取材を打診してみて、「やましいことは何もない」ところを公然とアピールしておくべきかもしれません。(これは一種のアリバイですね。)

 その際、まったく期待はしていなかったのに、初手から好意的に応対をしてくれて、とてもたくさんの資料を遺族の方が貸してくれた上、「何でも好きなように書いてください」と言われてしまった---。こういうときは、まあ普通ならば、その本人の悪口は書き難くなるのが、自然じゃないでしょうか。

 伝記作家が、遺族から何か金品を貰って善い事ばかり書いたという話は、野生は聞いたことがありません。
 明治の元勲の『○○公爵伝』といった立派な伝記は、死没直後に編纂委員会が組織されて、その華族の家の資金で手当てがされたのでしょうから、初めから顕彰目的なので、評伝とは違いますね。
 戦後の大企業の創始者の半生記や没後一代記で、やはり会社の費用で作られたものも、奥付を見たら、その部類だとすぐ知れるものです。

 野生は、いろいろな人へのインタビューをすることは嫌いな方ではありません。
が、経験から、それよりも少しでもたくさんの文献資料を漁った方が、はるかにその本人の「自我」に肉薄できるのではないかという予断を持っております。

 その本人を直接知っている人---たいていは“古老”でしょうが---へのインタビューは、評伝作家は試みる価値はあります。

 しかし、だいたい70年以上も前に物故した人物ですと、その本人を知る人も1人も生きてはいないわけです。
 この場合、それでも孫とか縁戚に尋ねてみる、という方法があり得る。しかし3代も経過してしまっていたら、意義はかなり疑問ではないでしょうか。

 戦前に東京に戸籍を移していた元子爵とか男爵以下の一代華族の遺品なり蔵書なりが、敗戦を経て平成時代まで維持されている可能性は稀でしょう。「屋敷」からしてもう跡形もないことが多いです。これは空襲疎開と相続税が関係しているでしょう。

 まるで無能な捜査本部のように「靴の裏に穴が空くほど歩きまわって、この前は1000人体制を組んで一斉聞込みをし、さらに山狩りもして草の根分けて遺留品捜索をやりましたよ」という、労働のアリバイを蓄積することは可能でしょう。が、過去の人の秘密が、孫やひ孫の証言から浮び上がることはまずなかろうと野生は個人的に思っているのです。

 人間臭さは、やはり「何を隠そうとしたか」によく顕われます。それこそ「自我」の働きだからです。本人が頭の中で描く理想とする自分像・自分史があるのだが、それより価値の劣る実際の自分が居たと自覚したからこそ、世間からは隠蔽したくなったのです。
 あるいは、周囲や世間の側の「集団自我」の働きもあったかもしれない。本人は隠すつもりがなかったが、周囲がそれを隠したということが。
 それはなぜか、を明らかにするのは、社会のエゴを書籍の鏡にうつしてやる、そんな批評となりましょう。

 例を挙げてみましょう。
 拙著『パールハーバーの真実』は、山本五十六元帥の評伝の要素を含んでいます。
 海軍高官の山本が、公言しなかった企図がある。それはかくかくであったろう、と、文書資料だけを参照して推定したものです。
 拙著以前に、こんなことを書いた人はいません。

 これに対し、阿川弘之さんの名著『山本五十六』は、関係者へのインタビューを念入りに行ない、「軍神の山本さんにも愛人との生活があった」と紹介しました。しかし野生は、この名著はたいへんなご労作で参照価値は不朽のものだが、退屈だと思いました。
 山本五十六は、他の旧海軍人と同様、愛人との生活を、周囲には隠していなかったでしょう。そしてまた、当時の社会がそれを公的には伝えなかったことは、戦後の読者にとっても、あまりにもあたり前だろうと思えます。

 山本五十六がもし、有名な小説家とか道徳の先生であったのなら、その愛人関係を取材することには、なにがしかの意義が認められるでしょう。

 野生は、山本本人が誰にも隠して語らなかったのは、やはり「フライング・フォートレス」の夢だったと思うのです。その夢が破れて、山本は死んだのです。そうじゃなかったのか、と問うてみたのが『パールハーバーの真実』でありました。

 本田宗一郎さんにだって愛人生活はありました。経済人/工業人ならみんな知っていました。しかし、ホンダの歴史を書く人がそんなところに筆を及ぼす必要はあるかといったら、あまり無いのではないでしょうか。

 松本清張さんは、愛人を持ちたかったが、あれほどの大家先生であったのに、残念ながらモテなかった、なんていう話もあります。これは生前にバレていたゴシップですが、却って松本さんに好感を抱かせる話であったように記憶します。

 さて、司馬遼太郎である。(この言い方を流行らせたのは、司馬さんでしたよね?)

 司馬さんは、産経新聞の大阪の記者だったときに、東西の本願寺が合併するという
想像をして、なんとそれをそのまま記事にしてしまったことがあります。
 捏造記事なんてもんじゃない。自分の頭の中の夢物語を、産経紙上でスクープ報道してしまったんです。
 将来の大小説家として、こんな面白いエピソードもないでしょう。

 ところが、司馬さんが逝去した後のいろいろなメディアの司馬特集で、このエピソードを紹介したものは、一つも見つかりません。
 皆、大いに遠慮をしているわけです。事前の自主検閲をするらしい。

 人々が遠慮する理由は、司馬財団の存在です。
 司馬さんの奥さんが差配している司馬財団は、司馬さんの著作権だけでなく、イメージを守る団体として有名であります。
 悪口を許さないそうであります。

 ですから野生が『マガジン WOoooo!』のコラムでいちど司馬さんの戦車の話にイチャモンをつけたときには、東京新聞の文化欄の記者氏がそれを「なのはな忌」か何かの記事中にさりげなく紹介していて驚かされました。
 たぶん、「アンタッチャブルでいいのか?」という疑問は業界でも誰もが持っているんでしょう。

 しかし現実は別であります。
 左は朝日から右は産経までのすべての新聞社、さらに講談社、新潮社、文藝春秋などなど並み居る大手の出版社で、司馬さんの原稿で儲けさせてもらっていないところはありません。これは過去の話ではなく、文庫本や全集や特集企画で、今も儲けさせてもらっているわけであります。
 だから、誰も司馬財団を怒らせることは避ける。司馬さんは、死してなお、そこらの売れない小説家とは別格なのであります。大手の版元ほど、「版権を引き上げますよ」と言われたときのダメージを考えて、戦々恐々としているのではないでしょうか。

 これに対して、過去に司馬さんとビジネスしてこなかった版元は、フリーな立場にあります。
 たとえば、原書房さんには司馬さんへの遠慮はないだろうと思います。あと、大江志乃夫さんの一連の著作を出しておられるところにも、遠慮はないでしょうね。

 それから、「中央乃木会」がアンチ・司馬であることは当然ですね。この団体の関係者が、零細な版元から、アンチ・司馬本を出しています。(インターネットで国会図書館の蔵書目録にアクセスして「司馬遼太郎」のキーワードで書名検索すると、出てきます。)

 野生が司馬さんのことで興味があるのは、日露戦争の話などよりも、むしろ大衆小説(髷物)のオリジナリティですね。戦前の吉川英治さんは、戦後の全集に収められている有名な小説の他、泡沫的な小作品を沢山書いていらっしゃいます。その、人々には忘れられたアイディアのいくつかを、司馬さんは戦後に幾つか「再利用」しているように思ったことがございます。それが何であったか、もう忘れてしまいましたが、いずれ熱心な研究家の人が比較してみせてくれるのではないかと野生は期待をしているのです。

 小説の秘密を暴かれることは、小説家のタブーにはできませんでしょう。

 質問がございます。
 日本国内でも、そろそろ「選挙のシーズン」に移行しそうな雰囲気があります。
 ところで野生は、「世襲議員」は必ずしも悪くはないのではないか---と思っております。
 これにつきまして、別宮先生のお考えは如何でしょうか?

03/6/27…#23

兵頭さま

 片山鳥取県知事が張り切って、財源委譲がなければと叫んでいます。全国人口最小の県が頑張るというのもすごい話です。この人は自治官僚のようで、総務相も応援しています。

 ただ、鳥取の人口は60万人、東京都1200万人ですから20分の1、ただし面積はほぼ同じで、対照的な土地柄です。一般にいう3割自治とは、独自財源が全体の予算の3分の1しかないという意味で、地方が中央に頭があがらない原因ともなっているのでしょう。

 かつて竹下→橋本→小渕と続いた、旧田中派内閣の主張は「国土の均衡ある発展」と「日中友好」に特色がありました。

 片山は自治体の長として始めて平壌に行き、何事か「外交」をやったと自慢していますが、何か旧田中派の日中友好とか鈴木ムネオのロシア外交と共通したもの、「金権主義」があるのでしょう。鳥取の境港が北朝鮮船の入港が最も多く、水産業者が北朝鮮の蟹を加工して利益を出したいと言ってのけていました。

 片山が北朝鮮貿易を支持するのは勝手ですが、他の都道府県よりも鳥取は北朝鮮貿易で有利な立場を占めるべきだと考えてはなりません。根室の業者が、北方領土支援事業で有利な地位を占めてはならないのと同じでしょう。

 これと同じことで「国土の均衡のある発展」は、治安維持や社会福祉、教育についてはYESですが、交通や箱モノについてはNOです。東京に飛行場があるからといって、1県1飛行場というのは、合理的ではありません。

 結局、税金の配分は原則として、人口によって按分されるべきでしょう。それが基礎であり、人口がいない過疎地が更に寂れるいう事情で過疎地に税金を投入することは難しいのでしょう。

 一方鳥取と東京のような人口バランスが悪いことを修正するため、道州制を導入しろという声がありますが。これも大きな誤りです。現在の都道府県は、それこそ遥か前から存在していたのであり、鳥取*東京の20倍という比率は英米と比較しても悪いものではありません。

 道州などやったら、それに見合った役人と箱が増加するだけです。

 そして、税金の国*自治体の按分も、税種ごと、つまり消費税を含む間接税の大幅な自治体委譲を考えたらどうかと思います。

 反面石原東京都知事の主張する、法人外形標準課税などは国税とした方がよいでしょう。というのは、企業の本社・本店が東京にあることが多いので、東京都がどうしても有利になります。反面、間接税は人口割りであることが、多いと思われるからです。

 また、税金の使途として治安維持、教育、福祉などは地方がやり、道や治水などは全面的に国がやった方がいいように思われます。これは現在でも例外を除いてそのようになっていますが、例外をなくした方がよいでしょう。例えば旧帝大を除いて国立大学は県立大学に移行すべきで、授業料も異なって構わないのではないでしょうか。そして旧帝大も徐々に私学化させるのも方策でしょう。

 従って住民税は所得比例ですから所得税に一本化、消費税はアメリカと同様に地方税化するのが良いのではないでしょうか。アメリカでは州によって税率が異なりますから、ウィークエンドには、ニューヨークから税金の安いニュージャージーに買い物客が移動します。

 このようにして長い間にはニューヨーク州の人口は減少するということになります。もっとも州都のオールバニーは、現在すでに過疎ですが。

 ともあれ、直接税や間接税、また国税や地方税にしても、完全に公平な税制など不可能であり。また地方税のみで地方が財政を成立させることは、東京・大阪のようなところは除いて不可能であり、3割自治が5割自治になるの精一杯で一挙解決などの掛け声は成功するとは思えません。

 そして外形標準課税はやるべきでしょう。銀行や商社が国税を全く払っていないのは異常です。

 ここに伊藤忠商事社長、丹羽宇一郎という銭ゲバの書いた文章があります。

「今のところ、中国人と日本人では、気力が違う。私どもが中国でビジネスを展開している実体験から言えるのは、労賃が安いという問題より、中国の労働の質が極めて高くなっていることである」

 ハイハイあなたの銭ゲバの気力には負けますというところだが、ODAの獲得や、中国ライセンス(総合商社設立は中国ではできない)獲得のために、このような薄気味悪い人種論と虚偽の論が言えるのが総合商社だということでしょう。

 労賃が安い以外に中国に進出している日系企業は、免許事業・公共事業請負の類だけであり、最早日本経済にこのような総合商社に代表される業種は必要ないのでしょう。

 このような免許や既得権益に乗っているところから、まず税金はとるべきでしょう。

 年金は現在のところ税金とは直接関係はないようです。年金は将来財政負担となるのは必定だとされていますが、これはなってから考えても遅くはないのでは?つまり予算欲しさの厚生労働省の試算にどの程度信を置いていいのかわからない気味があります。現在日本はまだ、欧米に比べれば、年金財政は健全です。今後の少子化が問題です。

 そして現在の少子化が進めばいかなる対策をうっても無理でしょう。日本がドイツとの比較人口減少に悩んだ戦間期フランスより酷い状態となっているのは事実です。


 このごろ少し、目にあまるのですが今月号の文芸春秋で「よみがえれ、坂のうえの雲」特集をやっているのですが、そこの中に歯の浮くような司馬への追従記事があります。司馬遼太郎の執筆態度を褒めちぎったものですが、こういった追従的な伝記は日本に非常に目立ちます。

 御師の有坂銃を読むと、有坂の失敗したこと、また基本構想の誤りなども天才的業績の一方指摘しています。近世以降の人間で完璧な人間などまずいないと思います。

 意地の悪い見方かもしれませんが、伝記作家というのは、個人の遺族から何か贈賄・便宜など受けているのでしょうか?

03/6/22…#22

別宮先生

 新聞や雑誌に寄稿を致しますと、掲載号がじっさいに売られた月の、遅くとも翌月の末までには、「原稿料」というものが振り込まれて参ります。

 これは「400字につき幾ら」と計算されるのが普通で、ミリタリー専門誌の場合ですと、その現在の相場は「二千数百円」前後ではないかと存じます。十年前から、ほんの僅かしか上昇していないという気がします。
 大手の雑誌、あるいは、経常予算に不自由していないリッチな団体な機関誌の場合等は、だいたいその2倍以上の額にもなるかと存じます。

 新聞の書評欄等、字数は全部でたった数百字、だが、それに要した投入労働時間は1万字分の書き起こし原稿にも匹敵しよう---といった作業でございますと、振り込み稿料は、さすがに1万円から2万円の間になるようです。
 これも大作家先生の場合に限りますれば、もっと色が付くのかもしれません。

 原稿料は、作家さんの口座に振り込まれる時点で、すでに10%の税金が天引きされているのです。ですから、面倒くさがりの作家がその所得を税務署へ申告しなかったとしても、その作家は、少なくとも稿料の1割は国庫に納めているのです。

 ちなみに、この天引きされた10%分は、「確定申告」でかなり取り戻すことができます。
 取材や打ち合せのための交通費、接待費、宿泊費、資料書籍購入費、電話代、DPE代、文具代は、領収書等の証票を添えればほとんど必要経費として認められ、その金額が収入金額からマイナスされて、翌年の所得税額や保険料の計算規準になりま
す。
 仕事場と住宅が同一である場合、仕事のためのスペース分の家賃や、ワープロ作業のための電気代等を、たとえば「3分の1」とか「4分の1」とか実態に即して正直に申告すれば、それもほとんど異論なく、経費として認めて貰えます。

 原稿料の金額の凄いのは、売れっ子のマンガ家さんのようで、この場合は「ページ単価」と申しますけれども、20万円を越す方もいらっしゃるようです。
 これはバブル時代でもせいぜい1〜2万円でしたから、バブル崩壊後に最も激甚な賃上げがなされた分野だと申せるのではないでしょうか。

 ちなみにA3のマンガ原稿を1枚仕上げるのに、下書きからカウントして最短でも30分はかかるらしいです。

 単行本から発生するのは、「印税」です。昔は作家が「検印」を1冊づつ押していたものですが、今はそんなところはもう無いでしょう。

 相場は、税抜きの定価の1割です。
 しょうもない文章レベルのエロ文庫本の書き下ろしのような仕事ですと、5%ということもあるようです。
 ちなみに、野生が単行本デビューした某・銀河出版は、書き下ろしの一般書籍なのに7%でしたが、こんなのは超例外です。(と思いい!)

 印税も、口座に振り込まれた段階で既に税金10%が天引きされております。
 そして印税収入も、確定申告の際は原稿料・講演料等といっしょに合算されまして、経費も、ぜんぶまとめて控除されるのです。

 印税が振り込まれてくるタイミングは原稿料とほぼ同じです。その書籍が書店にじっさいに並んだ月の翌月の下旬までというのが一般的ですけれども、早い会社は翌月の上旬に振り込んでくれるので、大いに助かります。

 兼業でない限り作家はフリーランスの自営業がほとんどですから、この振り込みの早い会社には「恩義」のようなものを感じることにもなります。
 野生の知る限り、文藝春秋社の原稿料の振り込みタイミングは最も早く、それに次ぐのはPHPさんの印税振り込みタイミングです。
 これらは感動的に早いです。

 余談ですけど、映像の業界では「エヌ」……つまり某NHKさんと仕事をした人は皆、感動してしまうようですね。ギャラや経費の振り込みは素早いし、しかも額も十分だからです。一度「エヌ」と仕事をしたら、もう他社とはやりたくなくなるほどだそうです。
 そういえば江畑謙介さんはNHK以外は絶対に出演なさいません。

 ヒマラヤあたりの山奥でトリの雛が巣立つまでカメラを据えっ放しにする取材企画---なんてものが通ちゃうのも「エヌ」さんだけでしょうね。

 単行本の出版に関する契約書は、日本の多くの版元では事前に作家とのあいだでこれを交わすという習慣がほとんどありませんでした。
 さいきんは、作るところが増えていると感じます。

 旧労働省の「指導」では、原稿料や印税は、必ず現金で、しかも一括で支払わなければいけないよ、としております。
 これは裏を返しますれば、現金でなく現物等で、しかも分割して支払おうとする版元が多かったわけです。バブル期以降はそんな会社はさすがにあるまいと思っていたのですが、某・四谷ラウンドという、印税をそもそも支払ってくれない版元もあるんだという現実を、野生は勉強したのであります。

 雑誌連載を後で纏めて単行本とする場合、作家は、原稿料と、その上に印税まで、手に致すこととなります。
 いわば「二期作」。

○英社、○学館、○談社、○田書店など、いまやコミック部門の売り上げで社員に食わしていると言ってもいいかもしれぬ版元は、雑誌は宣伝媒体と割り切って収支トントンの定価をつけておき、単行本のコミックで億単位の回収を計っております。

 月刊のメジャーな総合雑誌やオピニオン誌に、「こんなの敢えて連載するような記事か? 書き下ろしの単行本で出せばいいような内容じゃないか」と首を傾げたくなる企画が続いていることがあります。
 たいていは、高名なライターの玉筆。その立場は、駈け出しの新人フリーランスなどとは比較にならず強い。貯金もたくさんあって、生活に関しては少しも困っちゃいない方々です。

 この先生たちはどなた様もしたたかでして、「二期作」のもうひとつのメリットをフル活用しようとして、編集部に無理矢理に連載を強要しているのです。

 すなわちそれは、連載中には編集部から有形無形の「補助」をいろいろと受けられるのですね。
 もちろん、じぶんの筆名が大手媒体に露出し続けていることによるPR効果も馬鹿にできないでしょう。

 雑誌には「対談企画」というものがあります。
 対談を収録し終えますと、二人の先生にはその場で「お車代」が差し出されます。
 これは昔からの慣行でして、どんな大家先生でも、じつはこれを貰うのは楽しみです。ポチ袋に、ほんの1〜2万なんですけどね。

 ところが、最近立ち上げたばかり---みたいな新シ目の雑誌の編集員だと、この慣行を知らぬものですから、対談が終了したあとで、「先生、のちほど謝礼を振り込みますので、振り込み先をご連絡ください」などと言い、それで解散にしちゃう。
 そういうときには、口には出しませんけれども、センセイたちは『ふざけるなよ、この頓痴奇野郎!』と怒っているのであります。

 マイナーそうな雑誌でも、対談後にすぐ「車代」を出すところは、慣行の分っている編集者が居るわけですから、信用できます。

 で、ちなみに対談記事から発生する原稿料は、その字数の寄稿を一人で書いた場合の金額が、折半されて振り込まれることとなります。超大物の場合は、この原則の適用外かも知れません。

 それを何度もやって単行本に纏めれば「三期作」……ってことになりますかね。さらに「全集」に含めたら、夢の「四期作」……かも?
 まあ、トラタヌはやめましょう。

 以下、例によっての愚問でございます。

 「三位一体」の地方税制改革案が示されました。
 これにつきまして、別宮先生は如何、お考えでしょうか。

 消費税は米国式にすべきなのでしょうか?
 また、住民税はどうすべきでしょうか?
 それから、年金は?

03/6/19…#21

兵頭さま

 中国の通貨は人民元と呼ばれるものです。この通貨は中央銀行(発券銀行)の中国人民銀行が発行していますす。そして一般に誤解がありますが、円・ドル・ユーロのような管理貨幣(先日話が出た秤量貨幣の対)は実は中央銀行に対する(譲渡可能な)預金証書なわけです。残念ながら利息はつきませんが…。

 先日最高学府を出て経済誌に勤めている者が、不況を乗り切るには、日銀がジャンジャン紙幣を刷って、インフレをひき起こせばよいと絶叫していました。これは完全に管理通貨制度がわかっていないわけです。つまり中央銀行が預金証書を発行するためには、預金をしてもらわねばなりません。これは取引の二重性と呼ばれるもので、ジャンジャン発券するのは良いのですが、誰に発券するのか中央銀行は政府に指示してもらわねばなりません。

 中央銀行はまた国庫の歳出入代理業務を営みます。つまり政府の取引銀行は日本銀行です。国と契約すると、支払いは日銀小切手と言われる日銀の自己宛小切手で支払われます。ですから民間銀行との出入りを除くと、紙幣の増発とは予算執行を意味しています。つまり、それ自体は国会で議決される予算で明示されています。

 中国で天安門事件があったさい、国営企業が金詰りに襲われました。この時首相の李鵬は「なぜ印刷局に残業させて、紙幣を刷らないのか」と言ったそうです。これは人民元の本質をよく示しています。

 中国を旅する日本人が驚くのはその紙幣の汚さです。とにかくクチャクチャになって、鯖の煮しめのようになっています。

 なぜこのような事になるかと言えば中国人民銀行は発券銀行としての機能を果たしていないからです。日本の民間銀行は毎日、紙幣の正損調整というのをやっています。つまり、日銀に民間銀行が入金するとき汚れた札と、綺麗な札を目で区分けしているのです。汚れた札(損札)と日銀に入金されたものは、日銀は毎日裁断して製紙原料として段ボール紙を作る工場に出荷しています。これはG5のどこの国でもやっています。(イタリー?)

  ところが中国人民銀行にこのような機能はありません。他の(国営)銀行に現金を受け入れ供給し、銀行間決済という機能がないのです。他の銀行は支店毎に紙幣を金庫にいれて独立して保管し、預金者の支払い要求に応えています。もし現金がなければ、その銀行毎に自己宛小切手を渡します。これが緑票・白票問題と呼ばれるものです。

 このような前近代的銀行制度を是正するために、日本銀行や大蔵省はこれまでに何人ものアドバイザーを派遣しています。しかしその都度絶望して帰ってきます。これは戦前、北洋軍閥にくっついていた土肥原賢三ら陸軍特務機関員と一緒です。ある人が、銀行業務のオンライン化を勧めたら、中国人がこう答えたそうです。
「もうオンラインは済んでいる。ATM(キャッシュディスペンサー)があるから見てくれ」

 日本人がそのATMを調べたところ、支店単位のATMだったそうです。

 銀行オンラインとはそのようなものではない、といくら説明してもオンライン=ATMと信じ込んでいる中国人は聞く耳をもたなかったそうです。この結果、中国の銀行の決算は集計まで6ヶ月かかります。

 このような国が紙幣の発券量を把握できるものと思えません。SARSについて末端の病院の報告がきちんと取り扱われていないのと同じです。

 中国の人民元はいわゆるハードカレンシーではありません。つまり中国国外に持ち出せば紙屑となります。誰も円とかドルに変えてくれません。これは人民元に限った話ではなくスエズ以東でハードカレンシーは、香港ドルとシンガポールドル(ともちろん円)だけです。

 韓国ウォンや台湾元もハードカレンシーではなく民間銀行同士の為替取引はありません。また香港ドルがなぜハードかと言えば発券銀行に同額の米ドルを引き当てることを発券の条件としているためです。ペグ制と言って、ある範囲を越えれば政府は、介入すなわち香港ドルを買い、米ドルを売る操作を行います。

 こういった通貨をドル本位制と言います。つまり政府が通貨の米ドルに対する価値を保証しているわけです。実体は通貨など発券せずに、米ドルを通貨として使用すればよいだけの話ですが見栄を張りたいのでしょう。

 この例でわかる通り、切り上げ切り下げをするには、まずドル本位制としなければなりません。政府がかつて日本でやっていたように1ドルは360円だと宣言して、国外への円の流出を制限し、国内で外貨が必要な人には円やドルをそれと交換せねばなりません。

 これが中国政府にはできないのです。ドル本位をやるためには国民の外貨保有を禁止し、政府が外貨の一元管理する必要があります。さもなくば交換要請に応えることができません。このための努力は香港やシンガポールのような自由港はともかく(発券銀行に規制を入れて終わり)領域国家では簡単ではありません。日本では1974年まで、国民の一定量を越える金の売買を禁止していました。そして海外旅行する人は、1000ドルの限度で政府に許可をもらいに行ったわけです。

 どの程度交換要請が出るかどこが保有すればよいのかを決め、まず発券量から始まって、地方政府の報告を厳格に運営せねばなりません。このようなことは今の中国人には不可能です。国営企業はヤミドルを保有し、香港などで不動産投機を行い、大量に損失を出していることでしょう。江沢民などは自宅にヤミドルをもち亡命に備えていると思います。

 現在人民元は一物五価の状態です。日本の新聞は1人民元=15円などと書きますが、友誼商店の前にはヤミドル屋が並び、9円で替えますと売り込みに必死です。紙屑に相場はたたないのです。

 塩川財相が人民元切り上げと言っているようですが、財務省の元気のよい課長補佐に押されたのでしょう。自分が中国に行けばドル本位など簡単に説得でき、また会計の近代化などオレがやると、自信過剰組は思うものです。前車の轍となるでしょう。

 明治人は日銀の設置から、国立銀行の設立まで血を吐くような努力をしています。課長補佐や中国人にできるでしょうか?


なかなかよく出版界の内幕がわかりました。ところで「原稿料、印税、そして著述業者にかかる税金」はどのように決まるのでしょうか?

話し合いというのは有効でしょうか?

別宮