空の戦い
空の戦いは飛行機を除けば既に存在していた。気球または凧による偵察である。これは古代帝国の時代からあったもので、目新しいものではない。それでも第1次大戦の最大の任務は偵察−索敵だった。そして地上の軍事行動を飛行機が制約できたかというと、第1次大戦ではやはり困難だった。第2次大戦でも急降下爆撃機または地上攻撃機が利用可能でないと地上攻撃は難しかったのではないか。海上でも真珠湾攻撃まで可能性だけで雷撃機の性能が実証されたとは言い難い。またこれらの攻撃機は戦闘機に弱く制空権が確保できていないと攻撃自体が難しい。
世界初の飛行機の軍事利用は伊土(リビア)戦争(1911)のイタリー軍のニューポール機による偵察飛行といわれる。そしてこの時、地上に手榴弾を投下したようだ。世界初爆撃といえなくもない。これはライト兄弟による初飛行の8年後である。
この機体も民間転用だったように大戦前の飛行機の発展は完全に民間主導だった。リードしたのはフランスで、ルイ・ブレリオは1908年英仏海峡の横断に成功した。この頃、イギリスではニコルソン参謀総長が「飛行機は金のかかるオモチャにすぎない。とるに足らない実業家が儲けようとしているだけだろう。」と怪気炎をあげていた。
開戦時にロシア300機、ドイツ240機、フランス150機、イギリス60機を保有していた。だが最初の1年間は任務としては完全に偵察活動と弾着確認に限定された。このためパイロットの技量はできるだけ低速で飛ぶことで判断された。もちろん手榴弾からレンガまで投下爆弾は試されたが、指揮系統で命令されたものではなかった。
偵察も航空写真が実用化されるまでは、記憶によるか写生によるかとにかく筆写に頼っていた。だが戦線が膠着化し騎兵による浸透が不可能になると飛行機の利用は誰にとっても重要となった。航空写真を最も早く実用化させたのもフランスだった。1915年半ばまでに飛行機に備え付けのカメラが実用化されすぐに水平安定化装置と振動最小化装置も加わった。
戦争末期には、写真分析家チームが結成され、敵情報の三分の二は航空写真によるものとなった。
また初期の重要な仕事は砲の弾着の観測だった。これは飛行機が移動しているため難しくシグナルから無線まで試された。最終的には地図を碁盤で区切り、弾着のつどコードを無線で連絡する方法が有効とされ、とり入れられた。
対空射撃の方は小銃による射撃が試されたが、全く命中しなかったという。しかし敵機と誤認し味方機を撃墜したケースは報告されているから、通常水平飛行であれば撃墜できたのかもしれない。当時飛行機の高度が1000メートルを越えることはあまりなかったから、小銃の射程距離にあったはずだ。
結局飛行機に対抗できるのは飛行機ということになったが、機関銃をどこに据え付けるかが問題だった。単純に前方に据え付けるとプロペラを打ちぬいてしまう。複座機で観測者が射撃することが一般的だったが、これでは敵機が横にいなければ射撃できない。また複葉機の上の羽を越え前方に向けることも考案されたが、複座のうえ抵抗が加わり、敵を補足することが不可能だった。
1915年イギリス人の元レーサーにしてパイロット、ローランド・ギャロスはある工夫を施した。プロペラに鉄板を貼り付け、弾丸が命中してもそれを跳ね返すことを考えた。4月1日ギャロスは初陣とともにオステンデ上空でドイツ機の撃墜に成功する。これは軍事機密とされたが、ギャロスは4月18日ドイツ占領地域に着陸することを余儀なくされ、この工夫はドイツ側に伝わることになった。結局連合軍に3週間の技術的優位を与えただけだった。
この工夫からヒントを得たオランダ人アンソニー・フォッカーは断続歯車を応用した同調器を発明した。これによりプロペラの回転と同じくする円盤を機銃の引き金に連動させ、機銃弾の発射を制限するというものだった
フォッカーE二
1915年8月ドイツに単葉のフォッカーET機が登場、同調器を搭載し連合国の制空権を一挙に奪った。しかしこれも長続きせず、フランスがニューポール・スカウト機を登場させると再び連合国有利となった。
1916年末、ドイツは再度傑作機Dタイプを送りだし制空権を握る。これは長く続いたが、1917年夏からは連合国側の量産体制が軌道にのり、ドイツを量で圧倒し始めた。イギリス陸軍の軍事学は索敵第一だから偵察活動には常に犠牲を恐れず、全力を尽くす。索敵が完璧であれば作戦は自動的にたつというもので、面白くはないが見識かもしれない。ただ敵を知ることに十分でも時々自分を知らないときがあるようだ。
エース・パイロット
第1次大戦はエースパイロットを生み出した点でユニークである。機体が貧弱なため、旋回性能の大半はパイロットの技量によった。また初期はパラシュートが実用化されていなかったため、撃墜されたパイロットはほぼ死亡した。
このため熟練パイロットにかかると、まず新人パイロットが対抗することは不可能だった。そして新人が熟練するまで生き残ることは難しく熟練パイロットのみが活躍する事態が現れた。
空戦が大規模に出現したのは双方が前方備え付けの機銃を単座機(その頃から戦闘機と呼ばれた)に設置した、1915年秋からである。それと共に、飛行機の専門化が進み爆撃機・偵察機が出現した。戦闘機はこれら運用機の掩護に従事するようになり、種々の戦術が実用化された。
まず戦闘機はV字形の6機編隊が標準となり、掩護する専門機・敵機の来る方向・航続距離などで、空中を上下にわけるレイヤーと呼ばれる航空管制が始められた。飛行機の上昇可能高度は上空3000メートルに達し、つれて上空の制空権を確保するための戦いが生ずるようになった。
爆撃
一方爆撃機も遠距離爆撃が可能となり、ドイツはロンドンの戦略爆撃をツェッペリン飛行船にかえ「ゴータ」爆撃機で実施した。しかしイギリスの本土防衛航空機隊と対空砲火は有効で、昼間爆撃はすぐ断念した。ドイツが渡洋(渡海かもしれない)爆撃を開始したのは壮挙かもしれないが、被害者は1000人を越えずまた撃墜された爆撃機は少なくとも300を上回りとても成功したとは言えない。積載重量がまだまだ不十分でかつ防御力も低かった。
そしてドイツの渡洋爆撃も被害の多さにより低調に向かったが、英仏のドイツ都市爆撃は1916年を境に逆転し活発となった。ドイツの都市への爆撃は1917年で600回を越えたといわれる。反面ドイツのロンドン空襲は100回を下回る。結局距離が短い方が反復攻撃および搭載量で有利だった。
そして対空防御も新機軸が生まれた。ドイツの各都市やロンドンは阻塞気球または凧で四周が固められた。そして飛行機が障害物を発見し減速したところを散弾で射撃するという高射砲の原型が現れた。実際は時限式信管の信頼性が低くなかなか実用化できなかった。
都市爆撃は攻撃側の被害を考慮すれば成功したとは言えない。また機数も甚大な損害をあたえるのに十分ではなかった。一方地上軍の攻撃も種々試されたが、成功したとはいえない。単純機銃掃射は確実に見えるがそれでも飛行機が速すぎ命中しない。空中戦での機銃射撃の理想的な距離は40メートルと言われ、のちの時代から見れば超接近戦だった。その意味では敵のパイロットが見える中世的な趣があった。これが陸戦だと300メートルでの打ち合いが普通だった。時速200km前後だと、その程度に肉薄しないと無理なのだろうか。
地上目標を上空100メートル以上から狙うのは困難だったのはうなずける。また急降下爆撃も研究されたが、機体の強度が不十分でついに実現しなかった。
大戦を通じて、機数は常に英仏が上回り、結果ドイツ占領地域上空で空中戦が行われることが多かった。このため英仏機は撃墜されると、ドイツの捕虜となることが多く被害は一方的に英仏が大きかったといわれる。当然主目的の索敵も効果があがったはずだが、これは統計に出にくい。
1918年、イギリスは世界初の独立空軍(RAF)を発足させた。アメリカの空軍は第2次大戦中独立したものだし、日本に至っては第2次大戦中ついに空軍を保有せず、実質は1952年航空自衛隊の原型ができたときである。第1次大戦末期イギリスは、22500機を保有し、空軍全体で30万人が在籍していた。主任務が索敵でこれだけの兵力に育てたのに驚かされる。
Whitehouse,A.G.,Decisive Air Battles of the First World War, NewYork, 1963