ニコライ大公

Nicholas、Grand Duke
(1856-1929)
            


ロシアの軍人;開戦時野戦軍総司令官、皇帝の叔父。

アレクサンダーU世の弟として生まれ、むしろ政治的才能に恵まれた。身長が2メートル近い長躯だったという。妻はモンテネグロ王国公女。

教育は軍人としてのもので、工兵学校と参謀大学を卒業した。その後、騎兵総軍の閲兵長官をしていたが、1905年首都の暴動の際、立憲制度の導入を支持しドゥーマ(議会)の設立運営に尽力した。このことは甥のニコライU世には感謝されたようだが、皇后のアリックスは帝位を狙うのではないか、と邪心をもって疑ったようである。

その後も立憲制度の導入に熱心であり、開戦に伴いニコライU世によって、陸軍総司令官に任命されたことは本人にとり意外だった。緒戦でタンネンベルグの戦いに敗れたが、ガリシアではオーストリアに快勝した。ロッヅ付近の戦闘や、第2次マズール湖の戦いは決定的でなく、1915年の春にいたった。その時ニコライの手に及ぶところではなかったが、砲弾・火器・服装いずれも不足し、ロシア軍は実態上人数だけの状態に陥っていた。

マッケンゼンゴルリッツ突破は全てを打ち砕きロシア軍は大退却を余儀なくされた。1915年8月解職されコーカサス方面軍の司令官に左遷された。1917年の二月革命ではニコライU世の退位に賛成する側にまわった。しか、し臨時政府はニコライ大公を疑いの目で見たため、クリミアに脱出しそこで蟄居した。1919年3月、ボルシェビキ勢力がクリミアに及びイギリスの巡洋艦マールボロで、皇太后マリヤとともにイタリーに脱出した。

その後、南フランス・アンチーブに居住したが、白軍への協力には消極的だった。死の際には、フランス軍がかっての同志を栄誉礼をもって遇し、旧帝政ロシア軍将校ら5千人が参列したという。


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