ニミッツ
前回の最後ですが、幣原の子分の佐分利貞男中国公使が変死した事件がありました。この事件の真相は解明されたのでしょうか。別宮
事件は1929年(昭和4年)11月29日起きました。舞台は箱根富士屋ホテルで射殺死体になって発見されたのですが、他殺とすると密室殺人ですね。すなわち内側から鍵がかかり、小さな小窓だけが侵入路なのです。そして遺体はベッドにあお向けに寝て、毛布がすこしかけられていました。拳銃は軍用の大型のもので、右手に握られていました。
小田原警察が所管ですが自殺説を公式にとりました。
佐分利貞夫
ニミッツ
それで他殺説がどうして広まったのですか。別宮
幣原が他殺説をとり警視庁に依頼したためです。また松本清張が昭和史発掘のなかで他殺説をとったことが影響したかもしれません。ニミッツ
共産党のスパイM事件や下山事件もそうですか、今まで確認された史実で松本清張説は否定されたものが多いですね。やはり推理小説的には事実の究明はできないのではないですか。別宮
同意見ですね。日本のような社会だと仮に依頼をうけた下手人がいたとすると、これだけ年月がたつと真相はこうだ、という人が必ず現れます。この事件ではそれがありません。佐分利へのテロは国粋主義者にとり軟弱外交推進者の死ですから、満州事変などの勃発後であれば名誉あるものだったはずです。他殺説の根拠は遺書がない、通常使用していた護身用の小型拳銃ではない、(戦前は要人が武器を携行するのは異常ではなかった。)佐分利は左ききで右手に拳銃をもつのはおかしい、自殺なら正装しそうなものだが浴衣を着ていた、というものです。また幣原は動機が見当たらないと言います。
ニミッツ
それだけ不審点があがると何かおかしい気もします。別宮
一方で、遠隔地のホテルでの決行、自分の拳銃を携行、ホテルチェックインの前、半日以上の彷徨など自殺者特有の行動もみられるのです。また拳銃は護身用の小型のものではなく、自殺のため大口径のものを選んだのでしょう。警察は本人のものと確認しています。
ニミッツ
ますますわからなくなりますね。別宮
この事件の鍵は幣原が握っていると思うのです。幣原は実は動機に思い当たる所があったのではないでしょうか。それはしかも幣原の責任ではないかと思うのです。佐分利は小村寿太郎の娘を妻にしました。ところがその妻は早世しました。幣原は加藤高明の妻の妹、岩崎家(三菱財閥)から妻をもらっています。加藤、小村は明治末外務省2大派閥として対立していました。
そういった閨閥の対立が関係すると面白いのですが、全く関係がないと思います。
ニミッツ
前置きが長いですね。別宮
申し訳ありません。この時期の外交官は陸軍の人事抗争のような低レベルでは動いていないと思うのです。つまり派閥はありましたが自己の栄達ではなく国家の運命を考えての対立だと思うのです。もちろん至誠をもって行動したとしても、外交ですから失敗は許されないのでしょう。
佐分利が自殺した動機は中国公使への発令が原因だと思うのです。
佐分利はほとんど欧米畑を歩んでおり、中国に関与したことはなくまた北京官話もできません。その前にロシア(ソ連)公使の内示がありそれを取り消されたのがショックだったのではないですか。佐分利は日本に縁者がなく在外公館に勤務せず国内に勤務のときは帝国ホテルを常宿にしていました。すなわち外地に勤務する外交官として以外はアイデンティティがない人物です。佐分利はこの頃陸軍が主張し始めた大アジア主義にいいようのない危機感を抱いたのだと思います。大アジア主義をつきつめると近代(ヨーロッパ)国際法は必要なくなるばかりでなく、外交関係がすべて上下関係(朝貢関係)になります。この世界を国民党の要人や関東軍の幹部と接触するなかで見せつけられ絶望感となったのではないかと思うのです。
現在普通の会社でも欧米勤務が長い人物がアジア地区勤務の辞令をうけ、赴任後ショックをうけるのと同じ心理でしょう。
ニミッツ
この当時の日本の外交官、幣原らをどう評価しますか。別宮
外交官として有能な人物は多いですし単純に非難できない面があります。しかし一方で戦後に外交官が書いたものは陸軍の暴走により志をまげられたとする論調が多いように思えます。ドイツの悪はすべてヒトラーのせいだとするドイツ主流の考え方がありますが、これはその日本版で必ずしも首肯できません。日本の場合、外交について言えば1940年の日独伊三国同盟まで職業外交官が決定的なウエートを占めていました。1930年のロンドン海軍軍縮会議前後からたしかに外交官が全て主導したとは言えません。それでも、東條内閣前後すなわち開戦の決定を除けば外務省は機能していました。職業外交官の東郷茂徳に至っては終戦時と開始時二回外相を務めました。
戦中またその後の占領期も含め、外務官僚は時の政局にかかわらず、一貫した人脈を維持しています。そしてこの点はドイツ(西)と変わりありません。ドイツは軍人もそのまま西ドイツ国防軍に移行しましたからもっと極端かもしれません。
太平洋戦争敗戦は外交が最大要因です。この敗戦とは、負けた相手と組んだことで戦争を開始したことはとりあえず問題にしません。例えば単純な話しで第1次大戦のようにイギリスと同盟があれば参戦することはあっても敗戦はなかったでしょう。要するにこの時日本はバランサー足りえたにもかかわらず世界を割るようなことをなぜしたかです。
幣原は回想録で軍事力が存在するとその重みで戦争を開始する可能性がある、従って憲法9条を挿入し平和主義を確認したと言っています。これは真実を述べたと信じることができません。また戦前の幣原がそのような信条で行動したとも思えません。当時、絶対平和主義で平和を守ろうとしたのでしょうか。日本の外交官は、国益と国家目標の完遂にむけ必死の努力をしたのです。外交官も軍人と同様に愛国者または国家主義者だったのです。
ニミッツ
それでも外交官が和戦の決定に関与したとは思えません。また外交官は政治的信条をもつべきなのでしょうか。別宮
第1次大戦前のグレイのごとくニューリベラルの政党人というバックボーンがあった方が外交官として長期的視点を持ち得た可能性もあります。また職業外交官だけに依存する危険性も忘れてなりません。今でも霞ヶ関外交などと言って官僚が外交を主導すべき(!)だと主張する人々が新聞記者にも存在しますが歴史をよくみてください。官僚は国民にたいして直接責任を負っていないのです。1936年の日独伊防共協定は広田以下職業外交官の作品でしょう。武者小路(公共)駐独大使、大島武官がリッペントロップの相手ですが東京で主導したのは広田首相・有田外相です。この防共協定が世界を割った第一歩です。すくなくともアメリカはそう非難しました。
広田は2・26事件の直後首相となったので陸軍に弱かったといわれます。しかし強く出るとどうだったのでしょうか。内政で陸軍ができる最大のことはテロやテロを含む謀略を除けば大臣の引き上げでした。ところがこの現役制は広田の手により導入されたのです。外務省自体はその後松岡・白鳥が幣原派を追放しこの段階で陸軍の陰になったと言えなくもありません。しかしこの時点では陸海軍と独立していたと思われます。
ただ外務官僚の仲間意識は相当に強く、また陸軍のように仲間割れしません。このことが、この間の事情の解明を遅らせています。それでも広田は同僚をかばうつもりか、極東軍事裁判では何ら有効な証言をしませんでした。このあたりは陸軍の本部付き参謀将校より立派ですね。歴史に責任をもつという観点からは疑問ですが。
広田は積極的に陸海軍の外交関与を求める方向で動いた可能性があります。その方向が国益にかなうと判断したのでしょう。
しかし視野の狭さはどの陸軍軍人にも共通しており、まるで日本地図と中国地図しか頭にないが如くです。果たして大アジア主義の軍人と外交が語れるでしょうか。佐分利の死はそれを否定しているように見えます。
日本の軍事・外交で難しいのは戦略的には実質ヨーロッパの一部としてヨーロッパ諸国から行動が期待されるにも拘わらず、アメリカはその行動を嫌うためです。しかしドイツ(ヨーロッパ)とロシアが対立すれば、両国とも日本の向背は死活的重要問題となります。これ自体また距離の関係で平時に国内では説明が難しいものです。
もっと手短に言えば、日本の存在は世界にたいしこの時極めて重要だったのです。すなわち日本の位置はもし超大国が世界政策をもったときそれを左右します。反面ローカルな大国にとりあまり重要ではありません。この事態は現在でも変わっていないのでしょう。
そして、この事態は中国と何も関係を有しません。一時ワイマール共和国時代、ゼークトらが中国をしてソ連のチェックとなりうると検討した形跡がありますが、すぐ無理と判断したようです。そしてヨーロッパ問題に日本が関係するならば、中国とことを構えることは下策でしょう。これは秘密の教条として第1次大戦まで日本では当然とされていました。ところが第1次大戦によるヨーロッパの没落で、日本とアメリカがむしろ世界をリードしうるという考えが生じます。石原莞爾の日米最終決戦論はその現れでしょう。
ニミッツ
広田が幣原の路線修正を目指したとして、幣原外交の根本的問題はどこにあったのでしょうか。別宮
幣原外交失敗の根本原因は外交的理念を欠いていたことです。すなわち大きな意味で分裂外交なのです。すなわちアジア外交(陸軍)とヨーロッパ外交(外務省)の分裂です。幣原は外交の方法はヨーロッパに範を置きました。ところがアジアでは支那通の意見を取り入れました。アジア(東)は中国とほぼ同義語です。支那通の方針は基本的には中国本土からのヨーロッパ勢力の駆逐にありました。そして駆逐とは排他的利権の排除です。この意味ではアメリカの機会均等と意見の一致が得られるのです。この事に幣原は気づいていました。幣原は親米路線に傾きます。
ここまでは支那通もそれでよいのですが、もともとヨーロッパ的精神の持ち主ではありませんから原則をすぐ崩しはじめます。すなわち自分の排他的権利は擁護しヨーロッパの権利は駆逐してやろうと。すなわちいいとこ取りを狙います。
現在の論調でもなぜか当時の支那通の人達への同情があります。一つには満州国の経済運営自体が相応に成功したことがあげられます。しかし満州国駐留の関東軍の費用が本国から出ているのですから成功しない方がおかしいのです。
しかし帝国だとしてその中に帝国国民がいなければ少数派・被支配民族が独立運動・分離運動を起こします。そして議会が郷土政党で占められ民主主義がなりたちません。
支那通の多くは方法としてテロも容認していましたから次から次へとテロ事件を引き起こします。それに陸軍の大アジア主義者が乗り、幣原外交を排撃し出します。
当時の陸軍の主流を占めていた支那通というのは、世界を相手にしなければならない外交官に比較して視野が狭隘でした。佐藤賢了陸軍軍務局長の回想録によると、満蒙生命線とは現在の日本人に理解できないかもしれないが、移民のはけ口を確保するために必要だったというのです。生命線=はけ口とは極端ですが、当時日本人の賃金が高く、現地人は安かった。このため日本人の賃金維持に軍の保護が必要だったと戦後になっても主張しているのです。実際は駐兵費用で居留民の賃金はおそらく全部払えたでしょう。本当は軍が移民を誘致したのです。
満蒙が生命線というのは佐藤の論に従えば、よくて退役将校再就職の生命線か経済上の利権区域にすぎなくなります。しかし当時の主張はそうでなく安全保障にあったはずです。しかし時代はアルザスロレーヌを獲得して要塞化する時代でなく同盟政策が最重要なことは視野を広げればわかる話です。
外務省のなかでも国権の擁護に不熱心だと幣原に批判的だった広田・有田・東郷・来栖らは1930年あたりから、軍との妥協のうえで路線の修正をはかろうとします。ところが広田は外交官にとっての基本的な資質を欠いていたように見えます。
ヨーロッパ情勢と極東情勢の相互関連について認識が甘かったのです。防共協定を作り、日独がソ連相手に限定的に連携しても、英仏には影響しないと考えたことです。極端に言えば日本がアジアでどのように行動してもイギリスはアジア利権以外影響を受けないだろうという考え方です。
これは第1次大戦に日本が参戦しようがしまいがヨーロッパ戦線に影響しないだろうというのと軌を一にした考え方です。これは根本的に間違えています。イギリスからみれば日本が敵陣営に鞍替えしたかにみえたのです。
第1次大戦のときイギリス外務省が日本に地域制限を加えて参戦依頼したのと同じミスです。しかしこのミスはキッチナーとチャーチルによって変更されています。日本には不幸なことにこの力が働きません。陸海軍・外務省仲良し官僚クラブは意見の対立があっても解決がなかなかできません。人事内部詮衡の最悪の部分でしょう。この時キッチナーとチャーチルは軍部を代表していたのです。防共協定成立により陸海軍とも英仏を敵にまわすことに気づきません。むしろ国際連盟脱退による集団的自衛の崩壊を独伊と協定を結ぶことにより補完できるのではないかと夢想しました。
結局、吉田茂の言うように軍人は歴史などの教養がなかったかもしれません。しかし広田らに果たして教養があったのでしょうか。
ニミッツ
広田外交はそのあと日華事変の終息工作にも失敗するのですね。別宮
広田は幣原に対抗する外交方針を打ちたてた人物です。そのなかで軍部と対抗した文民的側面をみるむきもあります。しかし実際は軍部と初めて野合した外交官と言えなくもありません。終息工作の失敗では参謀本部の反対を押切って広田が省と画策した形跡があります。ヒトラーのポーランド侵攻成功後、陸軍が三国同盟を推進し、世界的視野をもつ海軍がそれに反対します。そこの中で防共協定創始者の広田の出番はありませんでした。これは世界地図を忘れ日本の殻に閉じこもった結果、陸軍にとっても必要がなくなったせいです。この時にはヒトラーの機嫌を取り結べばよいとなります。第2次大戦中ついに日独両軍は統一的に作戦を実施することもなく日独間に外交は必要ないかの如くでした。
ニミッツ
広田は日本の同盟政策しいては外交政策の中軸が安易に動かせると考えたのでしょう。別宮
そこが難しいところですね。例えばヒトラーは人種主義、国民主義、国家主義そのあたりに最大の原則があるのが明らかです。ところがイタリー、ムッソリーニのイタリーですが、との同盟のためには南チロルのドイツ人は切り捨ててしまいます。これは原則の放棄にみえます。ところが外交が政治である以上これは避けられないことです。ドイツ人はここの所がわかっていました。
日本の場合をとりあげましょう。例えばパリ講和会議で日本の代表が人種差別反対を唱えこれが原則とします。この場合外交政策としては主張しうるのは日本人が差別されたときです。インド人が差別されていることを主張することは国際法から難しいでしょう。インド亜大陸のことを主張すると大国としては武力が背景に出ます。小国は首長のきまぐれで済みますが。
ではアメリカに居住する日本人の子弟について差別が生じたらどうでしょうか。アメリカにいる外国人としての差別は当然ですから子弟の国籍取得とか財産取得が問題となります。この差別には国としての原則から何かしなければならない、と当時考えられていました。幣原が対米外交で最も困難だったのがそこです。
ところがアメリカと同盟している、ないしは希望すると同盟維持または締結が第1順位で人種差別反対という原則は憲法であれ指導者の政治スローガンであれ妥協せざるを得ません。もちろん反対を表明することは全く問題ないのです。ただ条約のなかには入れることができない=相手には強制できないとなります。これが政治的=外交的妥協です。
非難を恐れず言えば、日本に非核三原則があり普遍的な原理と主張しても既存の条文を前提にすれば国際法上アメリカに強制することはできません。それを知って嫌がらせで会議をもっても意味がありません。そういった意見があると表明するしか方法がないのです。それが妥協です。
日本人はこういった妥協を清潔さに反するかのようにとらえることがあります。また政治的妥協という点では連立政権の成立と似たところがあります。連立政権は例えばイギリスのロイドジョージが首班となった3党連立でもわかるように戦争遂行だけが政策で残りは首相または特定閣僚の指導に従うほか方法がありません。閣内不統一は当然となります。当然日本でこれを明確にするには内閣法自体の見直しが必要でしょう。個人的には総理大臣独裁は避けられない、と思いますが。
最近の日本の政治でも小沢一郎の政治手法をみるとこの点が欠落しています。つまり連立となれば原則を撤回するのが原則となり友好関係維持そのものが目標となります。政策統一による連立が可能ならもともと党を合同すればよいのです。
つまり妥協そのものが外交という面が否定できません。幣原はわかっていましたが国民に説明することはもともと不必要と考えていました。
陸軍が唯一もった外交方針大アジア主義について次回話しましょう。ただ理論として本を残したのは石原莞爾ですのでその論を中心にしましょう。