ニミッツ
前回まで1941年7月、関特演の挫折と南部仏印進駐=アメリカ経済制裁まで進みました。しかしこれでも戦争決定ではないですね。
別宮
戦争の開始とは具体的に言えば攻勢作戦計画の決定発動です。旧軍はやたらと戦略出兵を強調しますが、戦略出兵とは、作戦計画を自らたて、それを自ら発動することです。実はこの発想は第1次大戦のシュリーフェンプラン発動の状態と同じです。
形式的にはシュリーフェンプランは軍事計画として存在し、ある条件すなわち、仏露どちらか一方の総動員があれば自動的に発動されます。なぜかと言えば、この計画は仏・露の動員のスピード差に依存します。すなわちロシアの総動員完了は1ヶ月程度フランスより遅れると予想し、その間にフランス野戦軍を殲滅し、返す刀でロシアを討とうとするものです。
この条件を有効ならしめるためには、適状とみたら自軍も仏露一方と同じく動員をかけ、ベルギー国境を越え、フランスに向かわねばなりません。
戦争とはこのように始まるもので、敵占有地に踏み入る作戦計画がなければ、陸戦は始まらないのです。
逆の極端なケースは第2次大戦の開始、すなわち英仏のヒトラーのポーランド侵攻をみてのドイツへの宣戦布告でした。この場合、英仏はドイツへの攻勢作戦計画なしで宣戦布告を行ったのです。
また攻勢作戦は不利なので防禦作戦に出るため、敵にわざと攻めさせることを狙うケースとして蒋介石の第2次上海事変(日華事変)の開始があります。これは、少数の日本軍(海軍陸戦隊)を挑発し後続の陸軍主力に自軍の築いた防衛線を攻めさせようとするものです。
つまり塹壕線(ゼークトライン)を築いてそこで防衛戦をやろうとしたのです。蒋介石はこの目的のため、上海租界に無差別爆撃また海軍陸戦隊本部に決死隊による襲撃をかけました。
租界爆撃といっても市民で混雑する雑踏に爆弾を投下するもので、2000人近く死亡しました。死亡者のなかには後のアメリカ駐日大使ライシャワーの兄、または東京女子大の創立者ライシャワーの子息がいました。プロテスタントの宣教師でした。
この戦争をエドガースノーはビルに坐って見物のできる戦争と評しましたが、本質を見ることができないアメリカ人ジャーナリストの典型ですね。
ニミッツ
戦間期は、第1次大戦の戦訓をみて、攻勢より防禦有利とみたのですね。
別宮
そうですね。第1次大戦でイギリス・フランス兵は攻勢をかける都度大損害を受けました。
いわゆる第2次大戦初期、黄昏戦争で英仏とくにフランスがドイツに空襲などの挑発を行わなかったのは不思議ですが、侵略の汚名を嫌ったという面、及び報復を恐れたためでしょう。
あるいはフランスは話し合いによる和平のオプションを残したかったのかもしれません。
太平洋戦争開始まで、大きな戦争開始はこの2回だけです。上海事変では日本軍は中国軍の守備ラインを簡単に突破していますが、英仏軍がそれを参考にした形跡はありません。観戦武官がいなかったためもありますが、相手中国軍で参考にならずと見たのでしょう。一方ドイツ軍は中国軍を実質指揮していますから、単純防衛の戦略は失敗しかねないと言う結論を出したのかもしれません。この頃からゼークトと同じ世代は退役し、グデーリアンやロンメルなど若い世代がドイツ国防軍の主流を占めました。
ニミッツ
日本陸軍はどうだったのでしょうか。
別宮
前回もやりましたが1936年の2.26事件で皇道派が粛清されました。このため作戦家が消えてしまいました。この当時の陸軍の作戦計画は対ソ作戦だけです。統制派は寄せ集めですが、それまで作戦課などの主流の部門にはついていませんでした。勢い軍政畑が多く、皇道派の作品をそのまま受け入れて済みとしたようです。
ただ皇道派・小畑の作戦は、浸透戦術を柱にソ連軍を満州に引き入れ、そこで内線を利用し分力撃破を狙うものです。ありようはタンネンベルグ戦に似ています。
これは当時のレベルでは極めて有効なものだったでしょう。これに先制攻撃・予防戦争の発想はありません。ただ、この後を継いだ山下奉文や田中新一は、空陸共同作戦による全縦深一挙突破戦術を考案していたようです。
ニミッツ
それでは戦略出兵になりませんね。攻勢作戦計画がないのでしょう。
別宮
挑発とか一撃離脱とか、アジア的古代戦略はありますけれども。旧軍でも統帥の参考として孫子の兵法などを取り上げた人もいますが、国民国家成立のあと軍隊あげての寝返りは期待できません。これに基礎を置いた戦略などは取り上げるに足りません。
ただ中国では国民国家の成立が現在でも成し遂げられていない可能性があります。朝鮮動乱ではアメリカ軍(国連軍)に投降し、そのまま逆襲しようとする兵士が、大きい場合は連隊単位で現れました。ただアメリカ軍はどう取り扱ってよいかわからず、そのまま捕虜として扱ったようです。
この時陸軍の主流にいた東條は、ドイツに留学していましたが、イエナ大学で民間航空機のコースを取ったぐらいで、軍事知識に資するものではなかったと思います。
ニミッツ
すると東條あたりの世代にたいし陸軍大学では何を教えていたのですか。
別宮
高度の知識を要する砲術などを除いて、日露戦争の各会戦の詳細を教えたようです。ただ第1次大戦の戦訓が体系化されなければ、近代戦の統帥とは言えません。
ニミッツ
それで荒木貞夫らが主導して、教育を一新しようとしたのですね。
別宮
まあそうですが、第1次大戦の観戦武官の報告取りまとめ、また戦後とくにフランスの統帥綱領(新版)の入手で手間取ったようです。それでも東條あたりは、鈴木率道と同じ世代で中間の引き継ぎの時代です。
ただ皇道派全盛の頃は、鈴木の方が圧倒的に重用されていました。また学問的にも鈴木の方が上でしょう。ただ人格にあまりに問題があったようです。鈴木が統帥参考・統帥綱領をまとめたのは1930年に入ってからです。
また作戦立案が参謀本部の中心とすると、動員計画の策定は陸軍省の最も重要な仕事です。つまり分業的に言えば皇道派が作戦で、統制派が動員のようなことをやっていました。結果として統制派は予算や議会交渉などに力を割かねばなりません。
皇道派と統制派の対立は、小畑敏四郎と永田鉄山の対立に象徴されます。小畑の論は対ソ戦は満州における内線作戦が中心となることから鉄道重視、少数のプロフェショナル軍の養成の必要を説くものです。永田は総動員の必要性を説き、日本であまり成功しているとは言えない徴兵制度の刷新さらに、資源の統制また植民地軍の樹立による財政負担の軽減を考えていました。現在の目から見れば永田の論の理がありますが、永田を引き継いだ人物には全体の議論が欠落してしまいました。
すなわち、目先の動員体制の充実に目がいって本来の日本の安全保障について基本的な考えがなくなりました。省の縄張り拡大とか天下り先確保のような所にエネルギーがいって、日華事変解決を三国同盟によって図るなどと言う、統帥権干犯の逆、軍人が外交に期待するという偏頗な道に走ってしまいました。
ニミッツ
統帥参考とはどのような書物ですか?
別宮
統帥参考自体は陸大の教科書ですが鈴木率道一代の大作ですね。特徴はフランス流を主眼に各国の例を参考にしたものです。
「戦勝は、将帥が勝利を信ずるに始まり、敗戦は、戦敗を自認するによりて生ず。故に、戦いに最後の判決を与うるものは、実に将帥にあり。」
という1節から始まるのですが、これはフランス統帥綱領の受け売りです。また第2も計画が精緻であることよりも実施に当たる、将帥の堅忍不抜の信念によるとしており、これもフランスのものです。また全編悪文で冗長かつ退屈な役所文章です。
当然共和国のフランスですからこの将帥と言うのは参謀総長を指しています。鈴木もそれしか考えていないでしょう。ただ君主はこれとどういった関係にあるのか、なんの説明もありません。つまり鈴木ら皇道派の頭にはドイツ流のカイザーへの宣誓、忠誠といった概念はないのです。つまり参謀総長は和戦の決定に当たってオールマイティです。
この辺から皇道派というのは忠誠心の欠落した人々だとわかります。ただ、誰がと言う点は別にして、実際生きている天皇の命令には不服従でよいと考えたと思います。第1次大戦でカイザーを事実上追放したヒンデンブルグとグレーナーはそれでもその後悩みました。ところが小畑は終戦直後自殺した阿南のあとを継いで、陸軍大臣(無任所)に就任しています。これは近衛の推薦で昭和天皇は反対だったようです。
統帥参考に戻ると、この辺りを過ぎると第1次大戦の戦訓の羅列であり、参謀本部とは前の戦争への対策を検討するセクションであるというイギリスの格言を思い出します。
ニミッツ
不敬の書ですね。これは。皇道派の総帥、荒木貞夫は近衛内閣で文相をやって皇国教育を徹底させた人物でしょう。
別宮
近衛は皇道派の熱心な支持者でした。その事実からも近衛は陸軍のお気に入りだった、は俗説とわかります。荒木は陸軍内ロシア畑でした。当時それが陸軍の主流でした。元来、君主制支持だったのですが、ロシアでボルシェビキ政権成立をみて過激な反共主義者に転じたようです。反共主義者が反君主制的なことは普遍的です。また当時国家主義と社会主義の対立が政治の軸でした。これの大枠は反君主制です。
実際政府の転覆や好戦主義的外交などは、反君主的でなければ、どこの国でもできかねるものです。
ニミッツ
そんなものですかね。それでも陸軍がそのような状態になったのは不思議と言えば不思議ですね。