ニミッツ
石原莞爾は日中合作で、欧米に対抗すべきだと主張しました。満州事変の謀略もこれに従ったものですが、本当に実現可能と見ていたのでしょうか。
別宮
石原は陸軍大学を2番で卒業しました。この時1番は鈴木率道で後に皇道派の指導者となり「統帥参考」を著します。
この時、陸大の教導は石原が実際は1番であったにもかかわらず、聖上講義の際失敗をするのではないかと恐れ、わざと2番にしたともいわれます。この時主張に危なさがあることを教導は見ぬいていたのでしょう。
その後1922年から3年間、ドイツに留学します。この時分陸軍は10人近くドイツに毎年大量留学させています。これは第1次大戦の結果を見ると奇妙な措置で、陸軍がドイツ伝統の包囲・突破戦の考え方を棄てきれなかったことを示します。実はチャーチルもこの時同意見で正面攻撃の時代遅れを説いていました。第1次大戦を戦訓としてみたとき、従来の戦争と異なり、個々の戦闘でも評価が分かれたことを示します。
ところが石原はこのドイツ流にあきたらず独自の兵站理論を編み出します。それによると距離が決定的だと言うのです。
ニミッツ
すると石原の大アジア主義は兵站理論に則っているのですか。
別宮
実際は日蓮宗の国粋主義と軍事理論の合体したものです。
ドイツ留学組みは一般的にはルーデンドルフの総力戦論に参っています。東條英機を筆頭に皇道派も含めて実はルーデンドルフ=総力戦論の支持です。
ルーデンドルフは敗軍の将で第1次大戦末期、独裁を実行しました。総力戦論は自身にたいする刑事罰から免れるのが目的で、戦時において軍部の独裁となることが必要だという強弁が中心となります。ところがそれだけでは自己弁護に過ぎませんから、民間産業の戦時動員や陸・空一体の攻撃理論また謀略の必要を説きます。ドイツ流学説は断片で合理的なことを主張し統一してみると相矛盾するというのがよくありますが、日本人はそれを深遠と解する事がままあります。
ルーデンドルフの後段の部分はヒトラーの一部応用する所となりました。またチャーチルもヒトラーのポーランド侵攻を見て、総力戦のなんたるかを理解したと言っていますから後段の理解でしょう。
ヒトラーはルーデンドルフを一時政治的に利用しました。そして政治的な判断はヒトラーの方が数段うえです。ルーデンドルフの最大の欠陥は、軍事的結果(戦場での勝敗)や手段(装備・作戦・数量)が戦場にいる兵士と銃後の国民に及ぼす心理を無視しているか鈍感なことです。ヒトラーはこれに気づき第2次大戦の後半に現在地死守方針と後方陣地構築の拒絶方針を打ち出したようです。すなわちルーデンドルフがいくら強弁してもドイツには敗因が存在するはずです。
石原はそれまでの留学生のルーデンドルフ賛美にあきたらず、なぜドイツが敗れたかを空間的に考察しようとします。石原の得た結論はドイツが西部戦線から遠く、フランスは近い、第1次大戦の最終攻勢はこの結果だというものです。石原はこれを距離の二乗理論として説明します。すなわち根拠地からの距離の二乗に強さが反比例するというのです。これが石原の兵站理論です。
ニミッツ
税金を使ってドイツまで留学させてもらったのだから、もっと真面目に勉強しろと言いたくなりますね。石原の結論は普通の留学生に比べて各段に優れているかもしれませんが明快かつ単純すぎて個々の戦闘に応用できるとは思えませんね。
別宮
その通りですね。しかし独自の着想を得たことは評価すべきかもしれません。ニミッツさんの言う矛盾点について石原は戦術でなく戦略で解決しようとします。まあ詭弁ですけれども。
すなわち強さ自体は戦争の全期間どころかそれを越えて発揮されると言うのですね。
ニミッツ
それで中国との同盟ですか。まるで近交遠攻で外交の定石と逆ですね。
別宮
単純化すればそうですね。ただ戦間期を通じて、日本は大きな幻想を持っていました。すなわち英米一体論とイギリスの軍事力過大評価です。
年寄りは第1次大戦以前のことを知っていますから英米一体論の誤りに気づいていました。ところがイギリスの軍事力の凋落には気づきません。イギリスはその低下をアメリカと同盟することにより打開しようとしました。それは現在まで続いています。
当時の日本人はイギリスの凋落を認めたくなかったのです。というのは認めれば島国で植民地帝国の日本もイギリスの後を追うことが予感されたからです。そして歴史はその通りとなりました。すなわち日英ともに超大国からの転落です。
これの根本原因は、鉄道と内燃機関の発達です。要するに船で兵士を運ぶスピードと安全が陸上交通機関に追いつかなくなったのです。このため海上でいくら強くとも大軍を擁する陸軍勢力に勝つことが不可能になりました。すなわちアヘン戦争と同じようには、ガリポリで勝てないのです。
この海軍力の無力化に最も気づかなかったのはアメリカでした。1943年になってもルーズベルトは海軍力が世界戦争で決定的だ、との声明を出しています。海軍は太平洋と大西洋以外では勝てないし、世界戦争で決定的な役割を果たせなかったのです。太平洋の島嶼における戦闘は主として補給の観点から見るべきだとの石原の主張は正しいのでしょう。
日本の本土決戦について言えば、戦えば恐らく最も凄惨な戦いとなったでしょう。海軍力は陸戦と関係がなく補給は日本が有利だったため、両軍の被害は天文学的数字に達したと予想されます。すると本土決戦はある程度正しくトルーマンのソ連参戦誘引と原爆投下は正しかったことにもなります。すべて仮定の話しですが。
ニミッツ
石原はそれに気づいたのでしょうか。
別宮
気づいたと思います。というのは陸軍の大兵を動員できない日本兵に代わり中国兵を動員することを考えそれを大アジア主義の基盤としたことです。
ニミッツ
石原の兵站理論というのは妥当するのでしょうか。
別宮
遠隔地にある植民地は維持が難しいという点は妥当するようにみえますが、近隣にある植民地もアイルランドやアルジェリアを見ると同じく難しいですね。植民地とか帝国という統治形態が問題であって距離はあまり関係がないのではないですか。同盟国を求める際には、確かに定石の逆ですね。
戦前の教養自体がドイツ合理主義、すなわち経験論を認めない危うい立場に乗っていました。兵站理論でも抽象的な一般理論よりもニミッツさんの言う通りで個々のケースについてきちんと分析する必要があるのではないでしょうか。石原理論は連合国の最終攻勢についての疑問が背景にありますが連合国とくに仏軍首脳の戦術を分析する方が重要でしょう。
ただ仏軍の攻勢防御理論はドイツ流軍学からは解けないので旧軍関係者には厄介だったでしょう。誰でも若い頃基礎とした学問が否定されることはつらいものです。ペタン−フォシュの攻勢防御は攻勢移転とセットになっていますから。この中にあって石原の努力は他の軍人よりは上回っていたでしょう。現在の自衛隊の教官もソ連の縦深攻撃戦術をドイツの電撃作戦と混同している位ですから、ドイツの呪縛は深いというべきです。またドイツ流は第2次大戦後アメリカが採用しました。朝鮮やベトナムでのアメリカの失敗はそれに影響されています。両戦争における米軍の陣地攻撃失敗を研究してください。
アメリカ軍は防御力の強い地点を一番に攻略しようとしています。
ただ一筋縄でいかないと思うのは、陸軍はドイツにいれ込んだまでは事実ですが、全面的に従ったとは言えません。これは日本が外国技術を導入したときしばしば見られるのですが、完全に自家薬篭のものとして取入れたうえ更に改良するのが普通です。陸軍のエリートの表現は表現として実際のマニュアルに登場した場合、必ずフランスや他の国の良いところも導入しています。ところが問題はその過程がわからないので、どういった理解をしたかもわからないのです。仏軍の分析も表面的にはともかく実際は相当に行われていた可能性も否定できません。
よく陸軍はドイツ一辺倒だったと言われますが、そう簡単にはいかないし、日本の陸軍は層が厚いのは事実です。陸軍の問題はよく言われる独裁や下克上ではなくて極度の権力分散ではないでしょうか。
石原莞爾批判
ニミッツ
イギリスはそれでも第2次大戦の勝利者となりました。
別宮
アメリカ・ソ連との同盟の結果ですね。帝国の崩壊は日本のシンガポール攻撃の結果です。第2次大戦は独仏戦と独ソ戦という陸上戦闘および日米戦という海上戦闘で決定されました。そして最大の決定打は独ソ戦です。要するにイギリスの出番は余りありませんでした。
実はイギリスは第2次大戦で陸上兵力ではアメリカと互角の動員を行っています。これはイギリスの人口を考えれば非常な努力でしょう。ところが伝統の海軍兵力は日本に恐らく単独で勝利できなかったくらいに凋落しました。そして日米英の陸上戦力はついに有効な戦闘に参加しえないまま終戦となりました。
ニミッツ
そのままでは戦後イギリスが覇者として行動することは不可能だったという事ですか。
別宮
もしドイツが独ソ戦に勝てば大西洋の海上戦が重きをなします。そして妥協による和平が成立すれば可能性はありました。ただ独ソ戦でドイツに勝機があったとは思えないのです。ドイツの勝機というのは第1次大戦の帝政ロシア軍崩壊とフィンランド冬戦争から来る幻想ではないでしょうか。
もちろん仮定の問題で答えようがないのですが、日本が北進論をとりシベリアに攻めこんでも結果は同じと思うのです。というのは日本は沿海州の奪取に成功しても、バイカル湖以西への進出には時間がかかると思うのです。場合によれば数年かかるでしょう。その日本の攻勢がドイツの侵攻を助けることができたか疑問なのです。
ニミッツ
中国から撤兵してもですか。
別宮
それは全く違う話になるでしょう。日本は中国本土駐在の軍を削減できます。更に中ソ国境で中国人が新彊から外に出る力が働きますから、警戒が必要となります。1937年から1940年までの日華事変の現状について参謀本部は常に撤兵による打開を求めていました。これは事実そうならなかったので、過小評価されていますが歴史的事実です。そのとき、多田(駿)参謀次長は撤兵せねば自滅だと叫んでいます。
1939年には、予算が人件費にとられる事により、地上攻撃機の稼動機数が50機を割ってしまいました。整備に必要な資材の購入ができなかったのです。日華事変の上海攻防戦のあと日本兵が戦場で鉄屑拾いをしているのを見て、イギリス人は驚いて本国に報告しています。
上海決戦
陸軍参謀本部は最後に至るまで省の圧力に負けたということでしょう。これが統帥の実態です。ただ参謀本部も1940年のドイツのフランス戦の大勝利で、ドイツに乗っかって日華事変を解決しようという不可解な結論に達したのです。これにより日華事変が太平洋戦争の原因と陸軍は考えるようになりました。ただ、日華事変がなければ装備が充実した陸軍は対英または対ソ戦にもっと早く出ていた可能性は否定できません。
ただこれも歴史の仮説の問題でなんとも言えないのです。復員経費や計画段階での時間を計算に入れれば完全に戦備を整えるのになお時間がかかったかもしれません。もし一貫製鉄所建設など基礎からやり直すのであれば、10年単位でしょう。このあたりの基礎的工業力の充実について石原はロシアの5ヵ年計画が参考になるとしていますね。
ニミッツ
すると日華事変はソ連にとり、負担軽減となったのですね。
別宮
隣国同士の抗争や隣国の内部分裂は常に自国に有利に働きます。ただし自国と隣国が大国の場合です。小国はあらゆる理屈をつけて大国を巻き込もうとするでしょう。ただロシア防衛というのはどの状態でも困難な課題です。
ロシア兵は第1次大戦でも勇敢に戦いました。第2次大戦では第1次と異なり将領も優秀だったようです。ソ連は社会主義国で、それを理由として好戦的だとかまた逆に社会主義祖国を防衛するためには連合国は犠牲にならねばならないと説かれます。しかし試しにソ連またはロシア国防軍の司令官となってみてください。
まず、世界最長の陸上国境を守備しなければなりません。次に小国の同盟国はあっても頼りにできません。たとえ現在同盟していてもいつ裏切るかわかりません。
またロシアの隣国は全て領土を奪われた経験があります。もし戦闘で敗北した場合別の地点で予想外の敵が現れるかもしれません。
逆に期待は隣接していない国を味方とすることでしょう。それは英米仏となりますが援軍は海上ルートからは恐らく不可能でしょう。また物資の補給も、全て狭い海峡を通過せねばなりません。
これらの悪条件は他国にはないものです。
ニミッツ
大アジア主義には民族主義または国家主義と異なり、人種主義的な臭いがしますが。ただ黄色人種の団結のような考え方をまともに信じていたのでしょうか。
また満州事変以降外交官はどう動いたのでしょうか。
別宮
石原莞爾のものは国家主義が柱でしょう。仏教はどちらかといえば国権や王権にあまり関心を示しません。ところが日蓮宗だけはやや国家主義的傾向、国難とか安国という概念があります。しかし黄色人種の団結というのは、加州(カリフォルニア)の移民制限法から気分としてはあったのでしょう。
一般的に加州の立法は先駆的というより、法のたつ基盤のようなものを無視している傾向があります。悪く言えば、オーストラリアと並び西欧文明の果てなのかもしれません。ただ大州ですから影響もあるし映画産業による宣伝力もあります。クロコダイルダンディでも作っていればよいのですが。
いずれにしても、白と黒は土地の所有権が認められ黄は認められないというのは論理からいけば成り立ちませんね。法律としては24年間有効だったわけですが、アメリカ文明の恥でしょう。責任者はとっくにいませんが、この件が日米および米中関係を悪化させたことは疑いありません。
しかし、人種による分類で国家の同盟関係を決めるのは、これらアメリカまたは加州のゴロツキと同じ土俵にたつことになります。差別されたら何をしてもよいとはなりません。そして結果として…を余儀なくされた等と、政治家や官僚が発言してはならないでしょう。当然テロが是認されるが如きは自分達がゴロツキだと自白しているのと一緒です。
日本の外交官はこういった超国家主義的傾向または大アジア主義の影響は少なくとも主流にいた人は受けていません。神がかってもいませんし判断は常に現実的でした。ところが外交とは国策が決まってまたは理想、理念があって方針が決定されます。その意味では短期的な政局とは独立せざるを得ません。
また政党は政争の具とすることはやはり避けるべきでしょう。軍の機密があるように外交には秘密もあるでしょう。秘密としたこと自体の責任を問うてはいけません。ただ理想理念の欠如は前の時代には求められませんでしたが戦間期は必要だったでしょう。日本はこの時超大国だったのです。
次回は幣原と広田について検討してみましょう。