秩父宮の軍事政権論

ニミッツ
外交官が日華事変の終息に反対したとは不思議です。でも南京占領以降、蒋介石を相手にせずと宣言したのは近衛・広田ラインですね。広田という人は自ら計らず総理にまでなったのですが腰のないクラゲのような人物ですね。

外務省は戦火を拡大して中国で何をしようとしたのですか?

別宮
つまる所霞ヶ関外交の破産です。とにかく戦争が始まっているのですから、外務省と陸軍で縦割り行政をやっているヒマはないはずですが、官僚の性で、組織としての借りを返そうとするのですね。ここは完全に外務省が悪いのです。現在でもそうですが、外務官僚には他省庁もビックリの思い上がりがあります。官僚が政治決断なり政治的意見に優れると思い込んでいるのですね。試験の成績と政治的判断には余り脈絡がありません。

戦後に至るまで、この失敗を隠蔽し、黒を白と言おうとするのですから。要するに、ここは軍事と外交が一体にならなければ無理な切所なのです。軍事がわからない外務官僚では総合的判断ができません。

東方会を組織した中野正剛はこの頃ヒトラーに面会して日本はすでに沿岸と長江流域を支配し中国の経済的に重要な地点は全てそこにある。従って戦争は終了した、と言い切りました。

軍事をまるで知らない人間の言辞はこのようなものです。当時の日本人の大衆心理でもありましたが。恐ろしい事に外務官僚も同じだったのですね。当時の外務省スポークスマンが日本が盟主となるアジア・モンロー主義を唱えました。天羽という愚か者ですが。これには陸軍も驚き、取り消しを要求しました。現在でもアジアのリーダーになるべきだとの論説がありますが、まさか軍事政治的な意味ではないと思うのですが。

ニミッツ
秩父宮もそのような発想をしたのですか。

別宮
秩父宮は軍人ですから戦線があり敵が眼前にあれば戦争が終了していないことはわかります。

ただただ軍事作戦によって蒋を全面的に追い詰めることを考えたようです。これも軍人の陥りやすい欠陥ですが戦勝した後の結果を見ないのです。すなわち重慶を陥落させるにはそれまでの損害に匹敵するものを覚悟すれば困難ではありません。ただ問題なのは、それでも中国を全面占領できないことと、別途に駐留軍が必要なことです。

日本も含めて列強はこの中国軍事占領にコストがかかりすぎることを北清事変で既に認識していました。

ところが秩父宮は重慶軍事包囲作戦に没頭したようです。具体的には衡陽作戦と将来の重慶攻略のため蘭州作戦を立案、随分意見を具申したようです。

「重大なことを申し出られた。それは思い切って陸軍で軍事内閣を作り、時局の処理に邁進せよとのことだった。私も始めは真面目に受け取らなかったが、たびたびお申し出になるので、私の考える反対意見を言い、お断り申し上げた所、殿下はいたく不満で、ぷいと立ってお帰りになった。」と1940年1月参謀本部次長沢田茂は回想し、そして殿下が明らかに陛下と正反対なご意見を述べられたのは、その真意は奈辺に…としています。

ニミッツ
秩父宮の言動の断片しかわからないのですが、ある意味では外交ルートに乗らない休戦交渉、陸軍主導内閣、重慶占領作戦と全て陸軍中心の考え方ですね。

別宮
当時お若いですからご自分の世界を中心に見たのですね。つまり海軍と外務省が視野にないか、むしろ邪魔な存在と考えたようです。発想は皇道派に似ていますが、皇道派の省部軍人というより2.26事件を引き起こした青年将校の如き考え方です。

ただ3者鼎立の合意による意思決定よりも秩父宮のような完全陸軍独裁の方が実際起きた戦争、そして敗戦よりも良い結果を得られたかもしれません。しかしそれはあまりの結果論で、参謀将校は軍事・外交の基礎となるものを理解せねばならないのでしょう。

この辺りを陸軍士官学校や陸大教育の欠陥だと回想する軍人は多いのですが、実際はどこの国の士官学校も似たようなものです。違うのは日本の官僚制度です。つまりごく少数の陸大卒が省部の参謀将校の大半を占めている結果、過剰なエリート意識を若くしてもってしまい、判断の制御がきかないのです。そして恐ろしいことにこれは現在の官僚制度でもあまり変わっていないのです。秩父宮事件は確かにエピソードに過ぎませんが、当時秩父宮と接した、若手参謀将校はどのように思ったでしょうか。

試験の結果で宮様と膝をつきあわせることができ論破もできる、なんでもできると舞い上がるのは理の当然でしょう。そして作戦計画が良かろうと、軍功がどうだろうと昇進には関係がないのです。日本の軍政両略を論じても、責任を問われない以上、無責任としか言いようがありません。

このような異常な状態を避けるため、他国は士官学校の卒業生を増やし軍隊以外への職業選択を可能にする、もしくは他大学からの登用を行うなどの人事ローテーションを設けています。ただ軍隊は終身雇用制ですから、組織への過度の忠誠心やある家系、閥などを生みやすいのは、避けられないようです。

ニミッツ
つまり秩父宮は、日本の官僚制度の欠陥に気づきその打開を陸軍独裁に求めたのですね。

別宮
その通りです。

ニミッツ
秩父宮事件は起こるべくして起きたのはわかりました。しかし一方で昭和天皇が日華事変、とくに上海戦を推進した動機がよくわかりません。

別宮
ここでは石原莞爾がよく引き合いに出されます。上海の利権などは棄てたほうがよい、居留民には賠償すればよい、その方が戦争より安くつくと、語ったとされます。太平洋戦争全期間を見ればこれも妥当しているように見えます。

ただこれは外交など国政全部に通暁している者の言葉ではありません。当時日本は列強で、中国はそう見なされていませんでした。これは何も日本人がそう思っていたのではなく、外国人も中国人もそう思っていたのです。恐らく蒋介石は日本に代わり、列強の位置を目指したかったのでしょう。

果たして、上海の租界警備に当たっていた自国軍が攻撃され、反撃せず全財産をおいて逃げるということができたでしょうか。もちろん中国側が先に攻撃をかけたことは当時、当然のこととされていました。

現在でも国内外を問わず、他国の正規軍から攻撃され、なにもせず国軍が逃げるという選択があるでしょうか。

石原は単に上海のゼークトラインを攻撃する日本軍が、ソンムのイギリス軍と重なって見えたのではないでしょうか。つまり軍事面や満州国だけが頭にあり、世界のなかでの日本の立場がないのです。

ニミッツ
それでも盧溝橋事件の後華北に派兵していますね。

別宮
日本人の史家はそれを取り上げ強調しますが、派兵と戦争開始は違います。華北に85万人いたと推定される国民党軍にたいし、北支駐屯軍は1個旅団8000人に過ぎません。しかも北京・天津などに分散していました。これでは尼港事件の二の舞となります。当然不測の事態に備え、増強するでしょう。

派兵してもそれが戦争開始ではありません。

大概の国は抽象的な理由で開戦したりしません。具体的な勝算と領土や動産などを期待する場合が大半です。もちろん大国はこのようなことはできませんが。

蒋介石は日本軍に上海で消耗戦を挑んだのです。

ニミッツ
石原が陸軍参謀本部作戦部長でしたから、責任上拡大を望まなかったのでしょうか。

別宮
ただ敵の攻撃されたら一旦応戦する他ないでしょう。普通、全滅か逃亡でない第3の方法を選ぶのではないですか。

ですから、例えば石原・武藤論争は極めてピントがはずれています。8月13日以降の問題は華北でなく上海です。

石原はゼークト線で膠着し戦線は動かないと予想したと思います。石原の持久戦論というのは陸戦の塹壕を挟んだ長期戦を言っており、その形を恐れたのでしょう。

ニミッツ
それでも近衛・広田のような人が拡大を叫んだのはピンと来ません。

別宮
近衛や海軍は石原の論に不満だったでしょう。米内海相が拡大に積極的だったのは海軍陸戦隊(上海派遣陸戦隊:上陸シャンリクと呼んだ)に危害が加えられていましたから初期は当然です。また、このように一方的に攻撃され、逃げると言い出した陸軍に怒りを覚えたでしょう。

今だと逃げるのも方便のような事を言いますが、それは過去の結果がわかっているから言えるので、当時の軍人にとり逃げるということが何を意味するか理解する必要があるでしょう。その意味で石原は満州国にロマンは持ったもののそれだけの人物です。

ニミッツ
挑発にのって攻撃すれば塹壕戦で、引けば逃げるですか、厳しいですね。

別宮
ただ、南京を占領してからは別の事態です。

すなわち、ここでトラウトマン工作が出てきます。この交渉がまとまらないのは参謀本部が具体的な条件を提示しようとするのですが、近衛・広田・海軍が邪魔をするわけです。この辺りは人間の心理で、陸軍の塹壕戦への恐怖をあざ笑いたかった面もあるのでしょう。

ともかく、鮮やかに勝ちすぎたのです。本来、停戦とはそのような時にすべきなのですが。

次回も陸軍の関係をもう少しやりましょう。