ニミッツ
2・26事件を契機にして皇道派が第1線から退いたのはわかりますが、その後代わるべき人材が現れなかったのですね。
別宮
皇道派はいわば陸軍のなかの最もエリートな部分でその意味で栄達などの人事に悩まされることが少なかったと言えます。逆に言えば東條らはエリートですが、一段落ちるため人事に固執したのです。ドイツでも貴族あがりの参謀将校は政治的なことに興味を示さずむしろ専門的作戦家となりました。皇道派でも隊付き将校でない省部軍人は作戦のみに没頭しました。その中心は対ソ作戦ということですが、言わばユーラシア大陸を巨視的にみた安全保障です。すなわち目線の向こうにはヨーロッパがあります。
これは石原らの大アジア主義と比較すれば明らかに対立します。皇道派は大アジア主義を支持せず、それだけ現実的でした。ただ小畑も石原に協力しましたが、満州国の樹立に反対はしませんでした。ただそれはソ連作戦からのもので、満州開拓とか五族協和とかに興味があったわけではありません。
要するに、小畑は中国軍が有効な戦闘単位になるとみなさなかったわけです。ですからあくまでもソ連作戦は日本がヨーロッパの同盟国とともにすべきだと見ていました。
統帥参考にはちゃんと連合軍としての戦闘という項目もあります。内容は芳しくありませんが…。皇道派は、幣原外交に反対ではありませんし近衛文麿とも近い関係にありました。近衛は皇道派が陸軍から追放された後も、荒木を文相にしたり小畑を無任所大臣に推薦したりしています。このことだけでも近衛が陸軍のあやつり人形などとは単純に言えないことがわかります。
昭和天皇も皇道派を身近に感じたところはあったのではないでしょうか。もちろん2.26事件は皇道派の青年将校が決起したことにより発生しそれの徹底鎮圧を命令したのは事実です。ここで言う皇道派は荒木貞夫を頂点とする省部(陸軍省と参謀本部)の軍人のことです。
真崎が2.26事件で軽挙盲動したのは事実ですが、昭和天皇はその子息を戦後20年間に亘り、通訳として身辺に置きました。
ニミッツ
2.26事件の時の侍従武官長の本庄繁も皇道派ですね。
別宮
昭和天皇も侍従武官となれば人事にご意向を働かすことができたのでしょうね。1967年に本庄日記が出ましたが、昭和天皇はお読みになったでしょう。すなくとも偽りを述べる人間ではないですね。終戦のとき自決しましたが、最後まで生粋の軍人でした。
永田が暗殺されその後出てきた統制派は人格に疑問符がつく者も多いですね。そのなかで東條が信頼されたのは無理がなかったのかもしれません。もっとも東條個人はともかく、東條は昭和陸軍でも最悪の人物を寵愛しましたが。
ニミッツ
それでも本庄は2・26事件では反乱軍に宥和的なことを天皇に直訴し受け入れられなかったわけですね。
別宮
その通りです。その際の赤裸々な会話が日記に記されていて、本当にあった会話だろうかと言う歴史家の声はまだ根強いです。ただ本庄にとり不利になることが記されていて、史料としては1級と認めざるを得ません。
そこでも触れられていないのは秩父宮の件です。この時、急に弘前から上京して来たわけですが、不自然な行動と見られても仕方がないでしょう。
ニミッツ
それは昭和天皇の行動に影響があった?
別宮
神のみぞ知ると言いたい所ですが、その前とその後の行動を見ると疑わざるを得ません。普通すぐに皇位簒奪かと疑うのですが、そうではなくて秩父宮がどのような外交政策・戦争政策をもっていたかです。
あえて言えば、昭和陸軍が常に好戦的だったと思えない節があります。つまり警察行動を目的とする出兵や海軍兵救出などを拒否することが多くありました。
陸軍は第1次大戦をあまりにも研究しすぎたため、大国同士の世界戦争が来るべき戦争であり、それに対しのみ対策を練らなければならないと脅迫観念にとりつかれていました。言葉として誤解しやすいのですが、陸軍が流行らせた国家総動員と総力戦の両語は極めて曖昧で実際の案でも示されないとわかりかねるものです。ところが総動員(体制)は違います。これは具体的に甲種合格と乙種合格の壮丁を全員、兵営に送り込むことです。無茶に聞こえますが、実際にこれは韓国やドイツで現在行われていることです。
ところが太平洋戦争末期まで日本は総動員体制をとりませんでした。
そして同時にシベリア出兵の倒錯した反省から政略出兵(戦争)について過度に消極的になりました。これは政治家や他の官庁からの要請の拒否と同じです。
戦前の日本は決して兵営国家でもなければ総動員体制の国でもない、むしろ軍人と外交官による官僚独裁国家に近いと言えます。具体的には2・26事件以降の首相は広田・近衛の他、全て陸海軍軍人です。つまり陸海軍省・外務省でもし意見が一致すれば軍事・外交という最も重要な国策を全て関係する官僚によってのみ決定できることになります。この状態を指して独裁と言うわけです。しかし単一組織が支配的になることはついにありませんでしたから、いわば合議独裁で、三つのうち二つがまとまれば、その結論が軍事=外交をリードする結果となりました。
この官僚独裁はわが国の歴史のなかで痛恨事として記憶されて良いでしょう。そしてこれら官僚はほんの一握りの陸海大成績優等者と外交官試験合格者にすぎず、優秀な人物とはいい難く現実を直視できなかったり、徒党を組んで自らの栄達のみを考える人物でした。そのなかに放り込まれた秩父宮だけがある意味で客観的に事象を分析し、片寄らない判断を下せる人物であった可能性があります。
そしてもしドイツのルーデンドルフ独裁のように軍事独裁が陸軍参謀総長独裁となっていれば、日米戦はなかったでしょう。北進しソ連、その後ヒトラー・ドイツと惨戦となった公算があります。言語矛盾かもしれませんが日本の独裁は複数官僚組織独裁です。
統制派軍人の興味の中心は人事でした。極めつけは東條です。東條は参謀総長の人事に没頭、長州の寺内はずしに全力をあげています。また作戦部長でも田中新一に固執、土佐一派はずしに血道をあげました。この田中が関特演をゴリ押ししたとき、東條は北進論に海軍の反対を考慮しながら反対だったにもかかわらず、説得されてしまいます。
東條がそうだから主張するのですが、国政にローカルな意識を持ち込んではなりません。
そして東條は人事にあくまでも固執しますが、和戦の関頭にあっても自分の主張を持っていません。つまり海軍の支持も得て、重臣の支持も得てと根回しに没頭、周囲に人事権を誇示するしか頭が行かないのです。
こういう人を真面目な軍人と評することはできません。
ニミッツ
すると秩父宮は皇道派に近かった?
別宮
と私は疑っています。
それでも普通は1936年の2・26事件で上京し宮城に入った事件が有名です。上京自体は高松宮からの依頼とされ、皇国史観の平泉澄が車中で説得に当ったとされます。ただ何もないとして南北朝時代を引き合いに出し、話し合ったといっても奇妙ですね。反乱軍の中心となった歩3が旧所属連隊でその関係も疑われた、最後は決起将校に自決を促したが一応定説となっています。
ただ反乱軍が秩父宮を担いだとして、昭和天皇に軍事行動をかけないのもおかしいですね。腰がはいっていないのかもしれませんが。
これが世上言う秩父宮事件です。
ニミッツ
その後、秩父宮は弘前連隊から参謀本部に移って、作戦課にはいったのですね。
秩父宮雍仁親王(1902−53)
別宮
始めからだと陸大・歩3連隊・参謀本部・弘前連隊・参謀本部・ロンドン・参謀本部・病気静養です。参謀本部は作戦課配属です。そして秩父宮は作戦課で作戦計画を作るのに没頭しました。
ニミッツ
政治的には無関心だったのですか?
別宮
無関心ではなかったと思います。が、同時に軍人は政治に関心を持つべきでないと考えたと思います。とにかくお血筋かもしれませんが、ものすごく勉強に熱心な方です。結核で入院されるまで1日5時間以上寝た日はないと言われています。
秩父宮の安藤・西田との関係は知られていますが、最後まで胸襟を開かすことはなかったのではないですか。むしろ特徴はその過度の作戦偏重です。つまり職業軍人として作戦や戦術・新兵器(科学技術)の研究に没頭しました。
ここに皇道派の特徴が現れています。つまりあくまでもロマン(夢)は追わず現実的なことです。そして現実的な軍人は大アジア主義に興味を示さず、世界との関係で日本を捉えようとします。
そして作戦を追求すればするほど、政治(外交)との関係が問われます。つまり逆も真なのですが統帥部と外交は一体的な判断が必要で実際には首相府にその機能をもたせない限り、この問題は解決されません。軍人が政戦略の合一などと言いますが、その意味は外交と軍事の一致です。
また今でも軍人が外交にまた関与した、圧力をかけたなどと批判する歴史家が後をたちません。しかし軍事と無関係に外交が成り立つなどと考えてはならないでしょう。すなわち別個に権限のなかでやるべきだと言うのは役所のセクショナリズム、縦割り行政にすぎません。そして役所がおのおの組織をかけて最良のプランなどを出し、それを足して2で割るような結論は、いかなるプランよりも劣ることの方が多いのです。
ニミッツ
日華事変の際は再度ロンドンにいましたが、この時秩父宮は不拡大を唱えたとされます。
別宮
言葉のアヤですが、拡大とは新規作戦計画の実施です。動員とか派兵は強硬な措置ですが、それを以って拡大とは言えません。日華事変は蒋介石が始めた戦争で、日本は挑戦されたのです。
よくテロリストや最後通牒なしに攻撃を始めた敵と交渉しても無駄だといわれます。これも言葉のアヤですが正確にはそうではありません。実はこの場合でも交渉や外交は存在します。攻撃を受けた方は、必ず攻撃せずに元の線に戻れとかテロの下手人を引き渡せという要求をしているのですが、攻撃側が応じないのです。この事態を指して、交渉しても意味がないと言っているわけです。実際には交渉=外交が頓挫している状態です。
日華事変では、蒋介石が戦線を上海に設定しようとして、海軍の陸戦隊に攻撃をかけました。
もちろん攻撃側、蒋介石が上海租界から撤退を指令すれば戦争は起きません。
ニミッツ
その時石原莞爾が上海から撤退した方が良いと不拡大を主張したのですね。
別宮
華北と上海と両方ですね。石原は中国領プロパーにいた在留邦人20万人を引き上げさせ、満州に集中させたかったのですね。
これはナンセンスです。実際支持者はいませんでした。自国の海軍陸戦隊が敵正規軍に攻撃され逃げるというのであれば、最早大国とは言えません。在留邦人の相当数が犠牲となるでしょう。もちろん蒋介石の軍は上海にはいったとたんに、外国人を全て殺戮しかねません。
それだと英米の支持が日本に来るなどというのはビザンチン外交で、実際起きたら日本は大国としての信頼を失うだけでしょう。
ニミッツ
すると、12月13日南京占領後に不拡大の方針はあった、と言うことですか。
別宮
その通りです。実際には10月28日の大場鎮陥落以降です。この時点で普通の野戦軍司令官ならば中国側にとり戦局が絶望的と悟ることができたでしょう。しかしそれは上海・南京間までの軍約60万人が降伏することを意味します。これは難しいですね。
戦局が絶望でも野戦軍を逃がそうとするのが普通です。当然日本軍は殲滅を狙います。つまり日本軍の追撃戦は中国軍の全面降伏以外不可避であり、並行追撃の収束点の南京を日本軍が占領するまで、戦いの慣性は止まらないでしょう。
ただ、南京占領時点でも陸軍参謀本部を除いてほぼ関係者全員が拡大=休戦拒否でした。海軍OBのなかにこの時の米内海相の態度をなじる声があります。それは人間の気持ちを知らない人々です。海軍は自国の軍隊=海軍陸戦隊(上陸:シャンリク)が攻撃されてもすぐさま反撃に出ない、また出ても政治的な発言を繰り返す陸軍幹部に心底怒りを覚えていました。
石原のように自分のロマンに凝り固まり総合的な判断が出来ない人間が要路にいたことが悲劇でしょう。問題は常識のある人間がこの石原早逃げ論を陸軍の身勝手と解し、陸軍参謀本部の言う事を聞かなくなったことです。
この時参謀本部は上海で簡単に勝てると思わず、消耗戦(塹壕戦=持久戦)になると予測していました。予想がはずれ、南京まで掃討戦をかけあまりにも簡単に中国主力軍を殲滅したとなると、要路の人間は皆、陸軍首脳部は愚かだ、反省すべきだと思ったのです。
ところが実際には参謀本部はその後の展開を極めて正確に予想していました。つまりそれ以上拡大してもコストが合わないことです。すなわち中国核心部分の占領だけで常時20個師団必要で、それは当時の日本常備軍全てでした。
つまり参謀本部は冷静に非拡大をこの時(南京占領後)唱えたのです。秩父宮はこの論に賛同したのです。
ニミッツ
その時昭和天皇は拡大派ですか?
別宮
昭和天皇も拡大派、すなわち蒋介石とここで休戦する必要はないと考えたと思います。ただ昭和天皇は近衛・広田と違い、むしろ西園寺らと同様に事態を現実的な観点で眺めていました。
つまり昭和天皇は中国で日本がいかに暴れても外交的にたいした事にならないと判断していました。これは日本の行動にある程度英米が支持を与えていると考えていたためです。これは陸軍が援蒋ルートと騒ぎ立てているので奇異に聞こえるかもしれません。
ですが援蒋ルートを言うならば、日華事変の前、ヒトラー・ドイツは軍事顧問団と大量の武器支援をもって蒋介石を応援しており、その後も武器援助の中心はソ連です。要するに陸海軍軍人は敵愾心の固まりで、かってに敵を作ります。もちろんアメリカは南京占領後の日本による全面にわたる戦線拡大は許せないと感じていたでしょう。しかしアメリカがそれを理由として日本に経済封鎖などを行うことは考えておられませんでした。
ところが参謀本部は目先の問題として陸軍予算が中国に取られていくことに我慢ができません。それでは正面装備に手が回りません。東條が1940年半ば以降、駐兵と誰もがよくわからない条件を出すまで、参謀本部は停戦=撤退に奔走しました。東條の頭が弱い所は、撤兵ができるようにするのが休戦交渉なのに前提として駐兵を要求していることです。
ともあれ秩父宮は撤兵を急ぐべきだとの参謀本部の考え方に賛成し続けました。この点で昭和天皇と対立する面はあったと思います。
ニミッツ
秩父宮は桐工作にはどのような反応を示したのですか?
別宮
推進に積極的だったようです。当時34歳ですが同年次の参謀将校を集めては課長に建白書を作ったりしたようです。この人々は今で言えば官庁課長補佐となりますが、当時の不文律で意見を言えるのは課長または班長までとなっていましたから、影響があったわけではありません。また内容も、当時のヨーロッパ情勢にうろたえているだけで評価に値しません。
また、こういった若手の陥りやすい欠陥、戦術のみへの拘泥が見られます。すなわち交渉を成功させるために一時的に撤退すべきだと主張しています。突飛なアイデアですが交戦中の軍隊を撤退させることは簡単ではありません。背後から急襲されることを考慮せねばならないでしょう。
ただ当時中国軍1個師(8000人から9000人)にたいし攻勢ならば日本軍1個大隊(800人)防禦ならば1個中隊(200人)と言われていました。これであれば後衛など必要ないと考えたのでしょうか。
つまり定石から行けば、交戦両軍の休戦が必要です。ところがこのように奥地へ行くと、ラインを引いて幾日までにどこまで撤退するかと言う交渉が必要でかつ傀儡政権を樹立しましたから、それとの統合問題が起きます。従って、中央での外交交渉が必須です。つまり外交ルートでなければ無理です。
ところが外交官は休戦に熱心ではありません。一つは休戦交渉をしても現地軍を自らの力では抑えられないと見、また他方で戦いに勝利したので休戦など必要ない、と考えました。また外交権が陸軍に奪われたように感じ、ヒネクレタのでしょう。
皮肉かもしれませんが秩父宮は昭和陸軍の生んだ知的なと言う意味で偉大な存在であったかもしれません。つまり日本のガンは陸・海・外のセクショナリズムだと相当早くに気づいたのではないでしょうか。
官僚のうち正義感の強い人間は、ロマンにあこがれ現実を自分の夢に合せようとします。そして権力だけにあこがれる出世欲の強い人間は閥に属し人事の恩典に浴そうとします。しかし真面目でかつ現実的な秩父宮はそういったコースを歩みまず、ある結論に到達します。
次回はその結論を検討してみましょう。